宇治橋合戦

宇治橋合戦

以仁王源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、各地の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を出すが、計画が露見して追討を受ける。
平氏の追手を逃れて近江の園城寺にいた以仁王と源頼政は、奈良の興福寺へと逃げる途中、宇治川に掛かる宇治橋で平氏軍と戦った。
源氏軍は以仁王を逃がした後、迫る平氏軍と食い止める為、橋板を外して応戦する。
橋板が外された為、橋を渡れず攻めあぐねた平氏軍だったが、馬筏(うまいかだ:馬をぴったり寄せた馬の筏)によって川を渡って源氏軍を圧倒した。
以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。
しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。
以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。

橋合戦(歌川貞秀画)

橋合戦(歌川貞秀画)

宇治橋合戦の経過

源頼政が橋を壊して平氏を迎え撃つ
園城寺から以仁王を連れて逃げて来た源頼政は、宇治橋で橋板を落として平氏軍を待ち構える。
源氏軍の戦力は1000余騎であったいわれる
平氏が馬で川を渡る
攻めあぐねた平氏軍が馬筏を作って宇治川を渡り、源氏軍を撃破。
平氏軍の戦力は28000余騎であったいわれる
頼政と以仁王が逃走
平等院まで退いた頼政は、以仁王を逃す為に防戦するが、負傷して自害。
その後、以仁王も絶命する。

平氏打倒を目指した源頼政

源頼政は、源氏一門でありながら平治の乱では平清盛に味方した。
その後は平氏政権に参加し、従三位にまで昇進する。
だが、頼政は清盛と袂を分かつ事になった。

以仁王の擁立を目論む頼政

頼政は、父・仲政とともに鳥羽院直径の近衛天皇や二条天皇に仕えていた。
その為、後白河上皇の子で平氏の血を引く高倉天皇の即位に違和感を覚え、同じ後白河法皇の子で藤原氏の地を引く以仁王を即位させようとした。
頼政は、武士である平氏の血を引く者が天皇となる事を良しと思わなかったようだ。

以仁王も即位を望んでいた

一方、以仁王は天皇の位を継ぐ資格のある親王になれずにいた。
その為、頼政の呼び掛けに即座に乗り、自らの即位までを視野に入れた平氏打倒計画を立てた。

以仁王の挙兵

1179年11月、平清盛は後白河法皇を幽閉すると、高倉天皇に譲位させ、自分の孫である安徳天皇を即位させる。
意を決した以仁王は、翌年4月、全国に散らばる源氏一族に平氏討伐を呼び掛ける令旨を発する。

清盛が追手を差し向ける

しかし、源氏が終結する前に、蜂起の情報が清盛の耳に届く。
清盛は直ぐに追補の武士を派遣する。
難を逃れた以仁王は近江園城寺に脱出した。
この時点では、清盛は頼政の関与に気付いていなかったといわれる。

長谷部信連

長谷部信連は、平氏追討の令旨が発覚したとき、使えていた以仁王は京の邸宅から園城寺へと逃した。
後に平氏に捕縛されたが、以仁王の行方を最後まで明かさなかったという。

宇治橋合戦が起こる

橋板を外して橋を渡れなくした頼政

一方の頼政は、園城寺で以仁王と合流し、奈良・興福寺へ向かって逃走。
平氏軍は約3万もの大軍でこれを追撃した。
このとき頼政は宇治川の橋板を外して馬で渡れない様にし、平氏軍の進軍を防ごうとした。

橋合戦『平家物語』

橋合戦
『平家物語』の宇治橋合戦の場面で、橋桁を渡って平氏軍に向かう園城寺の浄妙坊の肩に手を付いて一来法師が乗り越えて進んでいる。

馬筏で川を渡った平氏軍

しかし、平氏軍は馬を寄せて馬筏を作り宇治川を渡って攻め込んできた。
防御線を突破された頼政は、宇治の平等院で自刃して果てる。
以仁王は興福寺に向けて逃亡を試みたが、途中で流れ矢に当たってしまい、絶命した。

自害する源頼政

自害する源頼政
平等院まで逃れた頼政は奮戦するが、左膝を矢で射られて自害を決意(77歳)

“以仁王の挙兵”が残した影響

以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、その影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、治承・寿永の乱の幕を開けることになる。
以仁王の死後も頼朝は自らの関東支配の大義名分として以仁王の「令旨」を掲げている。


↑ページTOPへ