田中角栄の逮捕と実刑

田中角栄の逮捕と実刑

元首相が逮捕

功績は評価されている

1976(昭和51)年7月27日、当時の田中角栄・前首相が逮捕された。
日中国交正常化などの大仕事をやってのけた事から、現在ではその手腕は再評価されている田中角栄であるが、元首相という立場でありながら彼は逮捕されてしまい、最悪の形で歴史に名を残してしまった。

首相当時、人気があった

1972年に第1次田中角栄内閣が発足され、角栄は第64代内閣総理大臣に任命された。
角栄は新潟県の生まれで、学歴もなく資金にも恵まれなかったが、そこから総理にまで昇り詰めた彼は国民的人気を博し「今太閤」と呼ばれた。

田名角栄の事績

中国との国交正常化

田中はその期待に応えるように、まず日中国交正常化に取り組み、大平正芳外相と共に訪中。
毛沢東主席や周恩来首相など要人との会談を重ね、1972年(昭和47年)9月に日中共同声明の調印にこぎ着けた。
日中国交正常化は日本にとって戦後最大の外交課題だった為、田中のこの功績は賞賛された。

アメリカからは不審を買う

田中の日中友好路線をアメリカはよく思ってはいなかったようで、当時のニクソン政権の大統領補佐官キッシンジャーは「裏切られた」と激怒した。
アメリカは田中を警戒するようになり、これが後の金脈スキャンダルの引き金になったという見方もある。

日本列島改造論は失敗

田中は「日本列島改造論」という看板政策を掲げていたが、これは中央と地方の経済格差の均衡と図ろうというモノであった。
しかし、この政策は上手くはいかず、地価高騰とインフレを引き起こしてしまう。
経済政策に関して田中の読みは決して的確などではなく、その失政によって日本の経済はより混迷の度合いを深めた。

オイルショックが田中政権を直撃

政権二年目の1973年(昭和48年)、「福祉元年」としてさらなる財政拡大に出たところに、第一次オイルショックが直撃する。
オイルショックそのものは田中の失政ではないのだが、これによって経済は混乱し、物価も高騰、トイレットペーパーが品切れ続出するという事態に陥ってしまう。

スキャンダルによって退陣

そして、1974年、月刊誌『文藝春秋』が彼の金脈や女性問題を報じると、総理退陣を余儀なくされた。

戦後最大の疑獄事件「ロッキード事件」

賄賂を受け取り便宜を図ったという疑惑

ロッキード事件とは、トライスター機の販売不振に苦しんでいた米ロッキード社から5億円の賄賂を受け取り便宜を図った(ロッキード社から大型旅客機、戦闘機、対潜哨の3機種の導入を約束した)という疑惑で発覚。
角栄は長い裁判闘争を続ける事となった。

実刑判決が下るも選挙には勝つ

1976年の逮捕から審理を尽くして来た注目の一審判決であったが、1983(昭和58)年10月12日に角栄に実刑判決が下る。
司法が下した判決は執行猶予も付かない「実刑4年、追徴金5億円」という厳しい判決であった。
日本の裁判において一審の判決を覆す事は容易ではなく、角栄の命運も尽きたかのように見えた。
しかし、2か月後の選挙で角栄は22万票あまりという大量票を獲得し、15回目の当選を果たしている。

判決確定の前に角栄が死去

しかし結局は、最高裁で判決が確定する前に角栄は死去し、公訴棄却。
当時、史上初の「首相の犯罪」は法的には成立しなかった。

静かな最期を迎える

長老支配が根付く自民党

総理を退陣してからも自民党の最高実力者として支配力を保持していた。
角栄は逮捕後も、被告の身でありながら「キングメーカー」として政界に君臨し続けていたのだ。
首相を引退した人物が退陣後も自民党の長老として居座り続けるのは自民党のよくある風景だった。

病により政界から退く

しかし、角栄は1985年に脳梗塞で倒れて以降、公の場に姿を現す事はなくなった。
角栄が病に倒れて以降、彼と合う事を許されていたのは家族を除けば限られた関係者や、江沢民など中国から角栄を訪ねて来た要人だけだった。
何十年も側近として仕えた早坂茂三秘書や、金庫番の佐藤昭子も田中家からは遠ざけられていたという。

「眠い」という言葉を遺した

さらに8年後の1993(平成5)年12月16日の朝、入院していた慶応大学病院において「眠い」という言葉を最後に、そのまま長い眠りについた。

政治には陰謀論が付き物

ロッキード事件の背景に付いてはその後「角栄がアメリカの虎の尾を踏んだ為に失脚に追いやられた」などと云われる事もあるが、これは陰謀論の類であると思われる。


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