アラブ産油国の石油戦略で起きた石油危機により、石油市場の支配権が国際石油資本からOPECの手に移った。
これにより、安価な石油で工業化を進めてきた先進国は、経済が低成長に陥る。
以後、逆オイルショックを経て、原油価格の決定権は市場に移っていく。
>> 石油年表
第四次中東戦争勃発から10日後の1973年10月16日、緒戦の敗北から態勢を立て直したイスラエル軍が密かにスエズ運河西岸に渡り、東岸に展開していたエジプト軍を包囲しようとしていた。
戦況が明らかになった翌17日、緊急会議を開いたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエルを支援するアメリカとオランダへの原油輸出停止と、非友好国に対する輸出制限を発表した。
この石油戦略の発動を受け、非友好国に指定された日本では狂乱物価と呼ばれるパニックが起き、アメリカは国連安保理で停戦決議を急いだ。
これに前後して、石油輸出国機構(OPEC)も原油も原油価格の引き上げを決定し、74年1月までに原油価格は4倍になった。
これまで安価な石油で工業化を進めてきた西側先進諸国の経済は大打撃を受け、各国は戦後初のマイナス成長を記録した。
西欧諸国や日本の高度経済成長は終焉を迎える事となった。
この石油危機(オイルショック)は、石油の価格決定権が、「セブンシスターズ」と呼ばれる欧米の国際石油資本(メジャー)からOPECの手に移った事を示している。
そのOPECが結成されたのは1960年の事である。
それ以前は、メジャーが原油の公示価格なるものを設定して原油収入を産油国と折半していた。
50年代末には大油田の発見などで需要が緩み、原油の実勢価格が公示価格を下回るようになる。
この実勢価格の下落分は全てメジャーが被る事になる為、メジャーは59年と60年の2度にわたって公示価格を引き下げた。
資源ナショナリズムが高揚していた産油国は、このメジャーの価格支配に対抗すべく、OPECを結成したのだ。
ただし、当時の石油市場は供給過剰状態であり、たとえOPECが原油価格を引き上げてもOPEC以外からの供給で需要が賄えた為、あまり成果を上げられなかった。
しかし、70年代に入ると状況は一変する。
西欧や日本が高度経済成長を遂げると共に石油需要は急増し、需給が逼迫しつつあった。
こうして石油価格の決定権を握ったOPECは、加盟各国に生産枠を割り当て、最大の生産能力を持つサウジアラビアが「スイング・プロデューサー」という需給調整役を務める事で、価格を維持した。
ところが、OPEC加盟国には生産枠を守らずに密かに増産する国も多く、サウジアラビアだけが減収を余儀なくされた。
これに耐えられなくなったサウジアラビアが86年委調整役を放棄した事で、原油価格は急落。
この逆オイルショック以後、原油価格の決定権は市場に移っていった。
西暦 | 出来事 |
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1955年 | ソ連が原油輸出開始 |
1960年 | 石油輸出国機構(OPEC)創設 北海油田発見 |
1968年 | アラブ石油輸出国機構(OAPEC)創設 |
1973年 |
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1979年 |
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1983年 | ニューヨークやロンドンで原油先物の取引が開始 |
1985年 |
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1987年 | OPECが固定価格制の復帰と生産上限枠の設置を開始 |
1991年 | 湾岸戦争勃発 |