日中国交正常化

日中国交正常化

アメリカ外交の追従を続けた戦後日本の対中外交だった。
日本は台湾国民政府との国交を結んでおり、中国とは民間による経済・文化交流のみで、政府同士の公式なやり取りは無かった。
池田内閣では「政経分離」方式での貿易拡大を模索するなど、日本側では中国のと経済的繋がりだけは保つ努力が行われた。
しかし、アメリカのキッシンジャー外交による、電撃的なニクソン訪中宣言により、180度の転換期を迎える。
>> 日中国交正常化 年表

首相次第の日中外交姿勢

戦後日本の対中外交は、アメリカの意向で1952年に台湾国民政府と日華平和条約を締結して以後、ほぼ完全にアメリカの追従だった。
その中で日中関係を繋いだのは、民間企業などによる経済・文化交流であったが、これも日本政府の対米追従度合いによって、緊張と緩和を繰り返す事となった。

一進一退を繰り返す対中外交

まず、対米自主外交を掲げた鳩山一郎内閣発足後は、「積み上げ方式」での対中関係改善が模索され、日中双方の民間貿易団体は、52年から58年までに4次にわたって民間貿易協定を締結した。
しかし、岸信介首相が親米・親台湾の姿勢を見せると、中国側は激しく非難するようになり、58年の長崎国旗事件を機に、日中の民間交流もほぼ断絶状態となった。
また、日米安全保障条約が改定されると、中国は「日本軍国主義の復活」と日本非難を激化させた。

日本がアメリカによるのが気に入らない中国

中国は次の池田勇人内閣に対しても警戒心を見せていたが、「政経分離」方式での日中貿易拡大を模索する池田に対し、「政経不可分」の原則を主張しつつ歩み寄りの姿勢を見せる。
そして、62年には日中貿易に関する覚書が交わされ、双方の代表である廖承志(りょうしょうし)と高崎達之助(たかさきたつのすけ)の頭文字を取った「LT貿易」が開始された。
しかし、次の佐藤栄作内閣が沖縄返還に絡んで対米重視に傾くと、再び中国は対日批判を強めていく。

田中角栄による日中国交正常化

対する日本側も、訪米した佐藤が日米共同声明で中国の脅威への共同対処などをうたっていた。
ところが、71年7月、日本の頭越しにニクソン訪中宣言が出されると、これに動揺した佐藤内閣は、国際環境の激変に対処できないまま翌72年6月に辞任する。
次の田中角栄首相は対中外交方針を一遍させ、9月に訪中して、毛沢東周恩来らと会談し、日中共同声明を発した。
こうして、独立回復以来の懸案であった中国との国交正常化が果たされたのである。

日中国交正常化 年表

西暦 出来事
1949年 中華人民共和国成立
1950年 中ソ友好同盟相互援助条約調印
1952年 台湾の国民政府と日華平和条約締結
第1次日中民間貿易協定成立
以後、数次にわたって民間貿易協定を重ねるなど、「積み上げ方式」と呼ばれる漸次関係強化が進められた。
1955年 日中輸出入組合設立
1958年
長崎国旗事件
長崎の中国関連イベントで、右翼青年が中国国旗を引き下ろした事に中国側が激怒。
背景には、台湾に好意を示す岸信介内閣に対する中国の警戒感があった。
中国が「政治三原則」を日本に提示
@中国敵視政策をやめる
A2つの中国を作る陰謀に加わらない
B日中国交正常化を妨げない
1960年
日中貿易再開
中国が「貿易三原則(@政府間協定A民間契約B個別的な配慮)」を日本に提示して、民間貿易が再開された。
1962年
LT貿易(日中準政府間貿易)開始
実質的な政府保証が付く準政府間貿易。
1966年
文化大革命
中国国内の混乱で日中関係が停滞。
日本側も、佐藤栄作内閣が沖縄返還を優先課題としたため、関係の進展はなかった。
1967年
佐藤首相訪米
日米共同声明で中国の脅威に対処する為の日米協力を表明。
1971年 ニクソン訪中予定を発表
1972年 田中角栄内閣成立
日中共同声明調印(国交正常化)
@両国間の不正常な状態を終わらせる
A日本は戦争責任を認め反省の態度を表明する
B日本は中華人民共和国を唯一の合法政府と認める
C中国は対日賠償請求を放棄する

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