戦後の政党政治

戦後の政党政治の復活

戦争で政党すら失っていた日本

戦前の日本では、新体制運動により全政党が大政翼賛会に吸収されてしまった為、敗戦当時の日本には政党は存在しなかった。
政党の代わりに大政翼賛会系の政治結社のみが存在していたが、それらも敗戦から一カ月以内に全て解散してしまった。
無条件降伏を受けて、官民ともに日本の世論は急速に変化していく。

戦後まもなく総選挙

終戦解散といわれる衆議院解散

戦後初の総選挙は1946年(昭和21年)4月に実施された。
前内閣の幣原内閣が衆議院解散したのが1945年12月で、同年のうちに新政党が相次いで結党された。

総選挙にあわせ多くの政党が結党

解散前の10月に日本共産党が再建され、11月に日本社会党日本自由党日本進歩党が、12月には日本協同党が結党した。
自由党と進歩党は保守系の政党で、特に進歩党には翼賛会系の議員が多かった。
※しかし1946年1月にGHQが発令した公職追放令によって共産党以外の政党は大打撃を受ける

自由党が勝利し吉田茂内閣

自由党と進歩党の連立政権

そして、1946年4月10日に行われた総選挙(第22回衆議院議員総選挙)では自由党が第一党となり、自由党・総裁であった鳩山一郎が組閣を目指す。
しかし、直後の5月7日に突如としてGHQより鳩山一郎に追放命令が下される。
鳩山一郎は後継総裁に吉田茂(幣原喜重郎内閣の外相)を指名、そして吉田茂が自由党の新総裁に就任、進歩党と連立して組閣した。

なぜ鳩山一郎に追放令が出たのか

鳩山一郎にGHQから追放命令が出された理由としては幾つか上げられる。
軍国主義台頭に協力した為、戦前にヒトラーの政策を成功と言った為、戦後アメリカを批判した事が各新聞の記事に載った為、などと言われる。

食料不足と物価高騰で労働運動が激化

吉田政権は新憲法の制定などを行ったが、このころ戦後の食料不足やインフレを背景として、労働運動が激化していた。
この情勢を受けて左派勢力が倒閣を目的にゼネラル・ストライキが計画、1947年(昭和22年)2月1日に実施する予定であったが、マッカーサーによって中止に追い込まれた。

戦後2回目の総選挙

自由党が敗北、社会党が第一党に

1947年4月、戦後二回目となる総選挙(第23回衆議院議員総選挙)が実施される。
この総選挙では社会党が勝利し第一党の座に就き、自由党は第二党となったが、これは与党に対する不満が選挙結果に反映されたと思われる。

社会主義政党による内閣が成立

社会党・委員長の片山哲は、民主党(進歩党の後身)・国民協同党と連立して組閣した。
しかし、保守政党であった民主党と社会党・左派は非常に折り合いが悪く、片山内閣は短命政権となった。
続いて、民主党の芦田均総裁が組閣したが、こちらも短命となった。

再び吉田茂内閣が成立

総選挙で自由党が勝利し第3次吉田内閣

片山内閣・芦田内閣が短期間で倒れてしまった為、結局、吉田茂が再び総理となり1948年(昭和23年)10月15日に第2次吉田内閣が成立した。
続く1949年(昭和24年)1月23日に実施された総選挙(第24回衆議院議員総選挙)で、民主自由党(元・日本自由党)が単独過半数を獲得した。
第3次吉田内閣は重要な政策を実行していき、1951年(昭和26年)にサンフランシスコ講和条約を締結した。

永らく政権に君臨した吉田が辞職

1952年(昭和27年)、GHQから追放されていた鳩山一郎が自由党に復帰する。
鳩山はGHQに追放された際、自由党の総裁に吉田を指名したが、永らく政権に居座る吉田に対し反対勢力を結集して対抗する。
吉田は二度の解散総選挙を強行したが(抜き打ち解散・バカヤロー解散)、自由党は単独過半数を割ってしまい、1954年12月に吉田茂は辞職した。

鳩山一郎内閣が成立

吉田に対抗心を燃やした鳩山

吉田の後を継いで首相となったのは、日本民主党の総裁となっていた鳩山一郎であった。
鳩山内閣は占領政策の修正、吉田路線からの転換を目指し、日ソ国交回復に向けて動いた。

保守派政党の合同に向けた動き

1955年(昭和30年)2月の解散総選挙(第27回衆議院議員総選挙)で民主党は大勝したが、単独過半数には届かなかった。
同時に、左右に分裂していた社会党が統一に動き出し、それを警戒する財界の要望もあり、保守合同に向けて動き出す事となる。

自民党政権が成立

1955年11月に自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結党された。
初代総裁は鳩山一郎、幹事長は岸信介であった。
以後38年間続く事になる「55年体制」が幕を開けた。
これによって戦後日本の政党政治は一応の安定をみる。


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