日本の占領解放・再独立

サンフランシスコ平和条約

日本を反共産主義の防壁とすべく、対日占領政策を転換【1951年】
冷戦の激化に伴い、アメリカの日本占領政策は大きく方針を転換し、「片面講和」による独立回復が実現した。

日本の独立回復を早めた東アジアの国際情勢

非軍事化・民主化」から「復興・安定・自立化」という占領政策の転換は、経済分野に限った話ではなかった。
例えば、GHQ主導の労働改革によって急速に勢力を増していた労働組合の活動に対しては、早くも1947年には抑圧の方針に転じている。
日本共産党などの指導下で同年2月1日に大規模なゼネラルストライキ(全国的な規模で行われるストライキ)が計画されると、マッカーサーは前日に中止命令を発して、ストライキを中止に追い込んでいる。
こうした左翼勢力の伸長に対する警戒は徐々に強まり、共産党員やその支持者の公職追放、「レッドパージ」へと繋がっていく。
逆に、終戦直後に公職追放となった保守層の追放は段階的に解除されていった。

日本が共産主義勢力との防壁に

当時のアメリカの意図は、ロイヤル陸軍長官が48年1月の演説で語った「日本を共産主義の防壁とする」という言葉に端的に表れている。
冷静激化に伴い、日本を西側陣営の国として自立させる事が、アメリカの世界戦略にとって重要になったのだ。
その後、東アジアにおける日本の戦略的価値は、49年のソ連の原爆保有宣言や中華人民共和国成立によって相対的に高まっていき、翌50年の朝鮮戦争勃発に至って、アメリカは日本に再軍備を要求すると共に、対日講和による日本の自立を急ぐようになったのである。

1951年 サンフランシスコ平和条約調印

アメリカは、さっそく国務省主導で関係国との交渉を進め、51年9月8日にはサンフランシスコ平和条約に調印。
翌4月28日の条約発効を経て日本の占領は終了した。
尚、平和条約はソ連などが反対した為、西側諸国中心の片面講和となった。
日本国内では、全交戦国を対象とした全面講和を目指すべきだとする論争が起こったが、当時の吉田茂内閣は、早期講和を目指すアメリカの意向に同調したのだ。
また、平和条約調印の同日には日米安全保障条約(旧安保条約)も調印されたが、これは、軍事的理由から日本への駐留継続を望む米国防総省の意向を反映したものだった。

平和条約の非調印国

講和会議に出席しなかった国
インド、ビルマ(ミャンマー)、ユーゴスラビア
出席したが調印しなかった国
ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキア
招待できなかった国
中華民国(台湾)、中華人民共和国

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