ニクソン訪中

ニクソン訪中を実現したキッシンジャー外交

1970年代、米中の歩み寄りで、東西冷戦の対立構造が大幅に変化する。
キッシンジャー大統領補佐官は国際情勢の変化を巧みに利用し、現実主義的な外交を展開し、中国とソ連に急接近する。
無事、中ソ両国との関係改善に成功したアメリカは、ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を実現した。

もう一つのニクソン・ショック

ドルと金の交換停止を一方的に宣言して「ニクソン・ショック」を起こしたアメリカのニクソン政権だが、その一ヶ月前の1971年7月には、もう一つのニクソン・ショックを起こしている。
キッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に訪中して、周恩来(しゅうおんらい)首相と会談した事に加え、その会談で、72年5月までのニクソン訪中が決定したと発表したのである。

中ソ対立を利用したキッシンジャー

この電撃的な米中関係の改善は、キッシンジャーの主導により、アメリカがイデオロギー重視の外交から現実主義外交に転換した事で実現した。
当時のアメリカにとって、第一の外交課題はベトナム戦争からの「名誉ある撤退」であり、これには北ベトナムを支援する中ソの協力が不可欠だった。
そこでキッシンジャーは中ソ対立を最大限に利用する。

アメリカ版二枚舌外交

まず、米ソ両大国と敵対関係に陥る事に不安を感じていた中国に接近し、米中関係改善を効果的に示した。
次に、米中の接近により、自身が孤立する事を危惧したソ連に対して、デタント(緊張緩和)を深化させる交渉を進める。
さらに、米ソのデタントによる関係改善を危惧する中国から、より多くの協力を引きだす、という戦略的な外交を行ったのである。
こうして、72年2月にはニクソンが中国を訪れ、両国の敵対関係の終了や、国交正常化交渉の開始を宣言した上海コミュニケを発表。
同年5月にはニクソン訪ソも実現し、73年1月のベトナム和平協定に繋がったのである。

米中国交正常化は先送りになる

この間、71年10月には中国の国連加盟と台湾の追放を求めたアルバニア決議案が国連総会で可決され、中国は国連代表権を獲得した。
また、米中国交正常化へ向けた交渉も続けられたが、台湾を巡る問題で双方が慎重になった事から、国交正常化はカーター政権の79年まで持ち越された。


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