ベトナム戦争

ベトナム戦争とアメリカの敗北

反共産主義を掲げたアメリカがベトナムで大敗【1960〜75年】
インドシナ戦争後に成立した南ベトナムでの内戦が、アメリカの軍事介入により冷戦下で最大規模の「Hot War(熱戦)」へと拡大した。
>> ベトナム戦争 年表

ケネディからニクソン政権まで3代に及ぶ戦火

ジュネーブ休戦協定翌年の1955年、ゴ・ディン・ジエムが北緯17度線以南にベトナム共和国(南ベトナム)を樹立し、アメリカの支持を得て大統領に就任した。
しかし、強権体制のジエム政権が休戦協定で約束された南北統一選挙の実施を拒否すると、民衆はベトナム民主共和国(北ベトナム)の支援を受けて60年に南ベトナム解放民族戦線を結成。
ゲリラ闘争を開始した。
(ゲリラとは民兵が不正規の戦闘員として戦争に参加する事。敵側は、兵士と民間人の区別がつかず、戦闘が混乱する。)

アメリカが本格的に戦争に参戦

これを共産主義の侵略と捉えたアメリカのケネディ政権は、61年に「軍事顧問団」を派遣する。
以後、南ベトナムで解放戦線とのゲリラ戦が展開されたが、63年のクーデターでジエム政権が崩壊すると、次のジョンソン大統領は軍事介入を本格化させていく。
トンキン湾事件を受けて議会から特別権限を得たジョンソンは、65年、解放戦線への支援を断つべく北ベトナムへの爆撃「北爆」を開始する。
地上部隊も本格投入し、69年初頭には米軍兵力が54万人にまで膨れ上がった。

トンキン湾事件

1964年8月、トンキン湾で米駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃された事件。
これを機に、ジョンソン米大統領は議会から戦争遂行権限を付与され、ベトナム戦争介入を拡大した。
しかし、71年に暴露された国防総省秘密報告書(ペンタゴンペーパーズ)によると、事件は米軍と南ベトナム軍が計画したものと判明している。
なお、トンキン湾とは漢字で書くと「東京湾」。現在ではヴァックボ湾「北部湾」と呼ばれる。

ソ連と中国が参戦、戦争は泥沼化する

米軍の本格参戦に対し、ソ連と中国の支援を受けた北ベトナムも正規軍を投入。
解放戦線と共に根強い抵抗が続き、戦争は泥沼化する。
また、枯葉剤作戦や米軍などによる住民虐殺が明らかになると、アメリカは国際的な非難を浴び、反戦運動も高まった。

テト攻勢を受け、一気に終戦ムードに

そして、68年1月のテト攻勢(アメリカ大使館が占拠される事件)で劣勢が明らかになると、ジョンソンは和平交渉を開始する。
翌69年に就任したニクソン大統領もこれを引き継ぎ、73年にはパリ和平協定が成立して米軍は撤廃した。
しかし、この間に戦争の主導権を南ベトナムに帰す「戦争のベトナム化」を勧めたアメリカは、南ベトナム軍の後方を確保すべく、解放戦線への補給路(ホーチミン・ルート)が通るカンボジアとラオスに侵攻して戦火を拡大している。

ベトナム社会主義共和国が成立

米軍撤退の75年、北ベトナム軍が南下してサイゴン(現ホーチミン)が陥落した事で、ベトナム戦争は終結。
76年にはベトナム社会主義共和国が成立して南北ベトナムが統一された。

近隣諸国の動き

ラオス
アメリカの支援する右派と、北ベトナムや中国が支援する左派のパテト・ラオが対立する。
ベトナム戦争終結後の1975年、左派を中心にラオス人民民主共和国が成立した。
カンボジア
親米派のロン・ノルが1970年のクーデターでノロドム・シハヌーク国王を追放する。
左派クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が国王派と統一戦線を結成し、75年にプノンペンを制圧。
民主カンプチアを建国する。

ベトナム戦争 年表

西暦 出来事
1945年 ベトナム民主共和国(北ベトナム)成立
1955年 ベトナム共和国(南ベトナム)成立
阮朝(グエン朝)の政治家だったゴ・ディン・ジエムが大統領に就任
1959年 ベトナム民主共和国(北ベトナム)が南ベトナムの反政府活動支持を決定。
ホーチミン・ルート建設を開始。
1960年 南ベトナム解放民族戦線結成
1961年 ケネディ大統領、南ベトナムに米軍事顧問団を派遣
1963年 ジエム政権崩壊
1964年 トンキン湾事件
1965年 北爆開始
1968年 テト攻勢
パリ和平会談開始
1970年 米軍、カンボジア侵攻
1971年 米軍、ラオス侵攻
1973年 ベトナム(パリ)和平協定調印
北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム解放民族戦線、アメリカの4者で調印。
米軍の撤退が主な内容だった。
1975年 サイゴン陥落
1976年 ベトナム社会主義共和国成立
サイゴン陥落後、南北統一選挙を実施。
その結果、ハノイを首都とする統一国家が誕生した。
サイゴンはホーチミン市と改名する。

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