1970年代、軍事費の増大に悩む米ソの思惑が一致する。
米ソ両大国共に際限のない軍拡競争に耐えられなくなっており、共通利害である軍縮の交渉を通じて、緊張の緩和を実現した。
これにより、長距離ミサイルの配備や核実験などに大幅な制限がかかり、現在でも、軍拡に対して大きな抑止力となっている。
また、同時期、西ドイツの積極的な東欧諸国への働きかけによって、ヨーロッパ全土でも、急速に各国の緊張が解けていった。
>> 米ソ・西ドイツの緊張緩和年表
1960年代に入ると、東西冷戦は新たな局面に入った。
東側の中ソ対立に加え、西側でも、フランスが米英主導の北大西洋条約機構(NATO)に反発し、66年にその軍事部門から脱退するなど、独自の外交路線を打ち出した。
一方、両陣営内で盟主としての地位が低下した米ソは、キューバ危機を回避した後、急速に関係を改善させていく。
特に、経済が停滞するソ連、ベトナム戦争の泥沼化に苦しむアメリカ双方にとって、軍拡競争にともなう軍事費の増大は重荷となっており、共通の利害として軍縮の機運が高まった。
そして、63年の部分的核実験禁止条約(PTBT)調印や68年の核拡散防止条約(NPT)調印を経た70年代の米ソは、軍縮を通じたデタント(緊張緩和)の時代を迎える。
72年には、ニクソン大統領がソ連を訪れ、大陸間弾道ミサイル(ICBM)などの戦略兵器を制限する第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)に調印し、翌73年にはブレジネフ書記長がアメリカを訪れ、核戦争防止協定に調印した。
デタントは、ソ連のアフガニスタン侵攻で終わりを告げるが、軍縮を通じた関係改善というパターンはその後も踏襲され、87年のレーガン大統領とゴルバチョフ書記長による中距離核戦力(INF)全廃条約調印は、冷戦終結宣言の足掛かりとなる。
米ソによるデタントの波はヨーロッパにも及んだ。
その中心的な役割を果たしたのは、歴史的に東欧との繋がりが深い西ドイツのブラント首相である。
ブラントが展開した東方外交は、70年8月にソ連と武力不行使条約を締結した他、同年12月にはポーランドとの国交を正常化する。
次いで72年には東ドイツと基本条約を調印した。
東西ドイツが相互に主権を認め合った事で、73年には両国揃って国連加盟を果たした。
さらに、チェコスロバキアやブルガリア、ハンガリーとの国交回復にも成功している。
このデタントの結果、75年にはかねてからブレジネフが提唱してきた全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催され、ヘルシンキ宣言が採択された。
西暦 | 出来事 |
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1963年 |
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1968年 |
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1969年 | 社会民主党のブラントが、西ドイツ首相に就任 |
1970年 | ソ連・西ドイツ武力不行使条約締結 西ドイツ・ポーランド国交正常化条約締結 |
1972年 |
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1973年 | 東西ドイツが共に国連加盟 |
1975年 |
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1979年 |
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1982年 |
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