山南敬助

山南敬助(さんなんけいすけ)

目次

隊士に慕われた心優しき新選組総長

のちに脱走し切腹となる(経緯は不明)

天保7年(1836年)〜元治2年2月23日(1865年3月20日)

山南敬助()は陸奥国仙台の出身の新選組隊士。近藤勇らとともに新選組を結成、当初は副長、最終的に総長を務めた。
隊規に違反(脱走)して切腹となったが、脱走の経緯は不明。介錯は沖田総司が務めた。
よく知られる説として、屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深めた事で脱走した、とされるが、裏付けとなる史料は存在しない。

諱は知信(とものぶ)で、晩年は三南三郎と名乗っていた。

近藤勇に出会う前の山南は謎だらけ

江戸で近藤勇に出会う前の出自や経歴は不明。「北辰一刀流の免許皆伝」「仙台脱藩浪士」などが一般的に流布している通説である。

「さんなん」と読むのが正しい

永倉新八の談話を元にした記事でも「さんなん」

山南敬助の山南という姓は「やまなみ」ではなく「さんなん」と読むのが正しい。
永倉新八が小樽新聞の記者に語った談話を連載記事にした「永倉新八」(のち『新選組顛末記』として合本)でも、山南の振り仮名は「さんなん」になっている。また、「三南」「三男」と誤記した記録が多数存在していることも根拠としてあげられる。
変わった姓であるが、諸記録がそうなっている以上は「さんなん」と読むべきである。

一刀流の使い手だが、流派は諸説あり

北辰一刀流とも小野派一刀流ともされる

陸奥仙台出身の山南は、いつのことか江戸に滞在し、神田お玉が池の玄武館で北辰一刀流の剣を修行したと伝えられる。
ほかに小野派一刀流を学んだという記録もあるため、どちらが本当なのかと問題にされることがあるが、実際に両方を学んでいた可能性も十分にある。

当時は他流派の剣術を学ぶのは普通のことだった

当時、複数の剣術流派を修行することは決して珍しくなく、また、北辰一刀流も小野派一刀流も、同じ一刀流系の二流派だ。
小野派一刀流を修行していた山南が、途中で北辰一刀流に転向したとしても、まったく不自然なことではない。

穏やかで学問にたけ、子供にも優しかった

新選組が屯所とした八木邸の子息の言い伝え

壬生の八木為三郎(新選組が屯所としていた八木家の子息)は、山南の印象をこう伝えている。
「山南敬助は仙台の人でした。丈は余り高くなく色の白い愛嬌のある顔でした。学問もうんとあるし、剣術も達者だというて、私の父などとは、殊に懇意にしていました。(中略)子供が好きで、私などと何処で逢ってもきっと何か言葉をかけたものです」(『新選組遺聞』)
新選組には珍しく学問にたけ、温厚な性格の好人物であったことがうかがえる

近藤勇と立ち合い、敗北を喫する

無名の天然理心流に敗北してしまう

そんな山南がある日、ふらりと立ち寄ったのが、天然理心流の試衛場(試衛館)だった。
そこで道場主の近藤勇と立ち会い、あろうことか敗北を喫してしまう。

敗北したその場で、近藤の門徒となる道を選ぶ

一流の流派を学び、腕には自信があったはずの山南が、一般には無名の天然理心流に敗れたショックは大きかっただろうか。その場で近藤の門人となることを願い出、以後は天然理心流を修行するようになったのである。

新選組を結成し、副長となる

浪士組として近藤らと共に京都へ、後に新選組に

文久3年(1863)には近藤とともに京に上り、新選組を結成。土方歳三と同格の副長に就任した。

なぜ、近藤と最も付き合い長い土方と同格なのか

土方と近藤の付き合いはとても長く、普通に考えれば、土方と山南が同格に扱われるのはやや引っかかるものが在る。土方もそうだったのではないだろうか。
新選組結成後、隊内では序列争いが起こるようになり、それはやがて粛清へと繋がることとなる。

芹沢鴨の暗殺に実行犯として参加

この時点では近藤の信頼あつい側近であったか

同年9月18日に実行された芹沢鴨の暗殺では、土方歳三、沖田総司、原田左之助とともに刺客となり、芹沢一派の平山五郎を討ち果たした。
暗殺という極めて秘密を要する行為に選ばれていることからも、近藤からの信頼があつかったことがうかがえる。

徐々に新選組から心が離れていった

盗賊退治を最後に存在が薄くなっていく

芹沢鴨の暗殺から分かるように、山南は初期の新選組にとっては欠かせない存在だった。
しかし、岩城升屋に押し入った盗賊を退治した一件を最後に、なぜかその存在感を失っていく。

元治元年(1864)2月「山南は病に臥し会わず」

元治元年(1864)2月に多摩の知人・富沢忠右衛門が壬生を訪れた際も、富沢の日記に「山南は病に臥し会わず」と記されており、人に会おうとしなかったようだ。
仮に病気であったとしても、旧知がはるばるやって来たのだから顔ぐらい見せることはできたはずで、それさえもしないほどこの時期の山南は悩んでいたということなのか。(もしくは、山南本人の意思とも違ったのか)

尊王攘夷か幕府の手先となるか悩む日々

永倉新八が語る山南の心境、近藤と対立か

このころの山南の心境を永倉新八が語っている。
「山南敬助は新選組の中堅として重きをなしていたが、隊長近藤がだんだん尽忠報国の本旨にそむきいたずらに幕府の爪牙となって功名をいそぐのをかねてあきたらず思っていた」(『新選組顛末記』)
つまり尊王攘夷に尽くすのか、純然たる幕府の手先となるのか、新選組の運営方針の点で近藤と意見が対立していたというのである。
肩書きも以前の副長から、総長という一見格上げになったような閑職に追いやられ、山南の鬱憤はつのるばかりだった。

池田屋事件にも参加せず、山南の名が記録から消える

新選組の方向性を確定することになった6月の池田屋事件にも参戦せず、まるで隊務の遂行を拒否しているかのように、山南の名は新選組の記録上から消えた。
もはや新選組にとって、山南は過去の人となりはてていたのである。

山南脱走〜元治2年(1865)2月23日

思いあまった山南は、元治2年(1865)2月23日、ついに隊を脱走した。

山南が新撰組初の脱走者となった

新選組には脱走を禁じた法度があったが、山南脱走に時点では、まだ脱走の罪で処分された隊士が誰もいなかった。もしかしたら、そのことが山南にとって楽観的な思考を生んだ要因であったかもしれない。

近江大津で沖田が山南を捕縛

近藤の命を受けた沖田総司が馬を駆って追跡し、近江の大津で山南はあっさりと捕らえられた。
抵抗した形跡がないのは、沖田には到底かなわないと、すべてをあきらめたからであったろうか。
それとも、それが本意だったのではないだろうか。
新撰組の任務は京都警護であるのに、都から離れた近江で斬り合いなどして沖田もただで済んだと思えず、山南にもまだ逃げる術はあったのではなかろうか。

山南切腹、屯所にて潔く果てる

屯所にて近藤が山南に切腹を命じる

屯所に連れ戻された山南に対し、近藤は無情の宣告をする。
「新選組法令に脱走を禁じ犯すものは切腹を命ずるよう規定してある。山南氏のこのたびの脱走についても法文のとおり切腹をもうしつける」(『新選組顛末記』)

切腹を命ぜられてありがたき幸せ、と山南(享年33)

新選組が自分の理想と反したものになってしまった以上、山南にはもはや思い残すことはなかった。 「切腹を命ぜられてありがたきしあわせにぞんずる」(同書)
そういって、仕度をととのえ、立派に切腹して果てたのだった。
その切腹の見事さには近藤も感服し、「浅野内匠頭でも、こうみごとにはあいはてまい」(同書)と絶賛した。享年は33。

山南の恋人、島原の遊女・明里との悲しい別れ

切腹の直前に、かねてなじみの島原の遊女・明里(あけさと)がやってきて、永倉の配慮により、屯所の出窓越しに涙ながらに別れをかわした逸話が伝わっており、山南の最期を悲しく彩っている。
ただし、この明里のエピソードは、永倉本人の手記『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』には明里についての記述が一切なく、子母沢寛(1892-1968:小説家)による創作の可能性が高い。

山南の死を悼む伊東の歌

自身も近藤らと対立する伊東は何を想ったのか

山南の遺骸は屯所からほど近い光縁寺に埋葬された。山南の死を悼み、伊東甲子太郎も追悼の歌を詠んでいる。
後に近藤や土方と対立し命を奪われる伊東は、この山南の死に何を想っていたのだろうか。

春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな 吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし 〜伊東甲子太郎


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