家康の将軍就任

家康の将軍就任

豊臣秀吉の死後、五大老の筆頭格として政界の中心に納まった家康は、豊臣政権の実権を握るも、毛利氏や上杉氏らと対立する。
関ヶ原の戦いにおいて、石田三成が率いる西軍を破った後、反対勢力を屈服させ、遂には征夷大将軍に任じられる。
天下人として君臨し、江戸に幕府を開いた家康は、天下普請で江戸城を拡張するとともに、新たな日本の中心として江戸の都市改造を開始する。
家康が将軍に就任する経緯をみてみる。

家康が豊臣政権の実権を握る

石田三成との対立が表面化

秀吉が死去して以来、家康は“秀吉から委託”された政務代行を忠実に務めていたが、それはあくまでも表の顔にすぎない。
その裏では、五大老の合議制を有名無実化させるために専断を行っていた。
その為、五大老筆頭格の家康と五奉行一の有力者である石田三成が反発、政権の実権を巡り、激しく対立する事になっていく。

三成による“家康暗殺”未遂?

秀吉の跡を継いだ秀頼は、慶長4年(1599)正月、前田利家と共に伏見城から豊臣政権の中枢である大坂城に移った。
家康も秀頼を供奉して大坂に赴いたが、その夜、石田三成らに暗殺され掛ける。
家康は急いで大坂を脱出し、伏見の自分の屋敷に戻ったが、その後も、三成の陰謀を告げる者が在ったという。
これが“家康の自演”でなければ、かなり危険な情勢だった事になる。

四大老が“家康の暗躍”を詰問

家康と三成の対立が決定的となるなか、家康は、前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝ら四大老から、伊達氏・福島氏・蜂須賀氏との婚姻に付いて詰問された。
家康は六男・忠輝に伊達政宗の娘を正室に迎え、また、甥の松平康成の娘を養女として福島正則の子・正之の正室にしたほか、外曾孫・小笠原秀政の娘を養女として蜂須賀家政の子・至鎮と婚約させるなどしていたからだ。

秀吉の遺命を破った家康

秀吉は文禄4年(1595)、諸大名が勝手に婚姻を結んではならないという遺命を残しており、家康の行為は、それに背くというのが四大老の主張だった。
四大老らの詰問に対し、家康は“既に届けているものと思っていた”と弁解するとともに、自分が五大老から追放されるような事になれば、それこそ秀吉の遺命に背く事になると反論した。
とはいえ、家康としても孤立は避けたかったのか、四大老の警告を一応は承認するという形で、和解している。

石田三成との対立

前田利家の死で、政権の分裂が顕著に

慶長4年(1599)閏3月、豊臣政権の重鎮として君臨していた前田利家が病没した。
利家の存在が、家康と三成との衝突を防いでいた事もあり、利家の死は大きな問題となる。

七将の石田三成襲撃事件

すぐさま、加藤清正・黒田長政・浅野幸長・福島正則・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明ら七将が三成を殺そうと企てたという。
史料によって七将の名は異なるが、三成を襲撃しようとしたのは確かだ。
襲撃を受けた三成が伏見に逃れて来ると、家康は七将との折衝にあたり、家康は三成に対し、身を引く事を勧めたという。
結局、三成は居城である近江・佐和山城に蟄居し、五奉行は一人かけて四奉行となった。

家康が“秀吉最後の地”伏見城へ入る

こうして、三成が政権から排除されるなか、家康が伏見城の西の丸に入ったのである。
伏見城は、秀吉が最期を迎えた豊臣家ゆかりの城であり、家康がその西の丸に入った事で、周囲は家康に覇権が移ったと捉えたようだ。
興福寺多聞院の院主・英俊は『多聞院日記』において、家康が「天下殿」になったと記している。

五奉行が三奉行に減る

家康は、その後も、“自身の暗殺を計画した”という理由で、五奉行の一人・浅野長政を蟄居させた。
こうして五奉行は、三奉行に減っている。
三成のときと同様、家康に都合よく“五奉行による家康暗殺計画”が露顕した事になり、家康の工作が疑われるのも仕方がない。

関ヶ原の戦い

上杉の上洛拒否を受け、家康が会津へ出兵

慶長5年(1600)4月、家康は会津の上杉景勝に上洛を命じた
景勝は五大老の一人でありながら、在国のまま支城を整備している事が謀反だと訴えられていたからである。
最も景勝は、越後から国替えになったばかりであり、領内の仕置に専念しなければならないという事情もあった。
その為、家康には上洛できない旨を訴えたものの、家康はこれを認めなかった。
景勝の上洛拒否を受け、家康は諸大名に対し、会津攻めを命じる。

三成が挙兵し、家康討伐に動く

家康が自ら軍勢を率いて会津に向かうと、畿内では三成が小西行長・安国寺恵瓊らの協力を得て家康を批判する十三カ条の弾劾文「内府違いの条々」を発して挙兵した。
事前に三成が、家康を挟み撃ちにする密約を上杉氏と結んでいたとも云われるが、確証はない。

都を目指す家康と、迎え撃つ三成

会津に向かっていた家康は、下野の小山まで来たところで三成の挙兵を知り、畿内へと引き返す
このとき、三成が美濃と近江の国境付近に位置する関ヶ原に陣を敷いたことから、9月15日、関ヶ原を突破しようとする東軍と、関ヶ原を死守しようとする西軍が激突する事になったのである。

家康軍は主力を欠き、数では三成が優勢

東軍(家康軍)の主力である秀忠率いる3万余の軍勢は、中山道から畿内に向かう途中の上田城で足止めされており、東軍は福島正則ら豊臣恩顧の大名を中心に戦う事になった。
関ヶ原に集結した軍勢の数は、東軍の7万8千に対し、三成率いる西軍は8万4千とされる。

味方の裏切りで、西軍が敗北

西軍の方が数では勝っていたが、もともと東軍に接触していた小早川秀秋が家康に味方した事で、西軍の優位は崩れてしまう。
そして、やはり家康に通じていた吉川広家が軍勢を動かさなかった事で、東軍が盛り返し、遂に西軍は敗北したのである。

勝利した家康による大名の配置換え

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、論功行賞で一門・譜代の家臣を大名に取り立てて、関東周辺の要所に配置している。
このため、関ヶ原の戦い以前に一万石以上の所領を持っていた一門・譜代の家臣は40家あったが、関ヶ原の戦い後には68家を数える。
その一方、豊臣恩顧の外様大名に対しては、東北・四国・九州など遠隔地に加封の上で移している。
幕府を置いた関東がこうした外様大名に攻められる事がないようにしたのである。

政権奪取への布石

戦に勝利しても“一家老”に過ぎない家康

関ヶ原の戦いで家康が三成に勝利を収めたとはいえ、これで家康の覇権が決まったわけではなかった。
家康は、豊臣政権における五大老の一人として、挙兵した三成を討ったにすぎない。

三成は「秀吉の代弁者」などではなかった

そもそも、三成の追討は、秀頼秀頼の母である淀殿からも求められていた事である。
だからこそ、福島正則のような豊臣恩顧の大名も、家康の指揮下で戦ったのである。
その為、依然として家康は「天下の家老」と看做されていたのである。

将軍就任を目指し「源氏」を名乗った家康

そうした状況のなかで、政権の樹立を図る家康は、征夷大将軍への就任を画策する。
家康は予てより、征夷大将軍への任官を希望していたモノであろう。
既に家康は、徳川氏の本姓を藤原氏から源氏に変えていた。

かつて政権を執った「源平藤橘」の四家

藤原氏や源氏のような一族に固有な氏を“姓”といい、名字とは異なる本来の姓という事で「本姓」という。
藤原氏や源氏のほか、平氏や橘氏を含めた四姓は、かつてこの四家が政治の実権を握っていた事から総称して「源平藤橘」と呼ぶ。

秀吉も四家の一つ「藤原氏」だった

将軍就任後の家康の前任者といえば“豊臣秀吉”であったと言えなくもない。
その秀吉が賜った「豊臣」とは姓であり、名字は最後まで「羽柴」だった。
秀吉は近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓としており、系譜上は秀吉も「源平藤橘」に入る。

“豊臣を無視”し、武士政権を開けるのは“将軍”

藤原氏であれば公家の筆頭格であったから、秀吉の様に関白に任官できるかも知れない。
しかし、それでは秀頼の地位を越えて政権を奪取するのは難しかった
その為に家康は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を信奉していた事もあり、敢えて征夷大将軍への就任を望むようになったと考えられる。

源氏と平氏が交替して政権を担う「源平交替説」

室町時代以降、武家政権は平氏と源氏が交代して政権を担うという、「源平交替説」が巷間に流布していたという。
平安時代末期には平氏、鎌倉時代初期には源氏、源氏の将軍が途絶えた跡は平氏の北条氏が執権として政権を担い、室町時代には再び源氏の足利氏が将軍となった事から、源氏と平氏による政権の交替が取りざたされたわけだ。
なお、室町幕府を滅ぼした織田信長平氏を名乗り、その信長を討った明智光秀源氏の生まれであった。

“なぜ源氏を名乗った”か、家康の真意は謎

ただし、家康がこの「源平交替説」にどこまで執着していたのかは分からない。
源平交替説はあくまで俗説であり、源平による政権の交替を朝廷が定めていたわけではなかった。
だが、源平交替説を表に出せば、征夷大将軍として政権を樹立する事への批判も交わせると考えていたのかも知れない。

家康が征夷大将軍となる

徳川の居城が「武家の政庁」

慶長8年(1603)2月12日、遂に家康は征夷大将軍に任ぜられた
征夷大将軍は本来、「蝦夷の反乱を鎮圧する為の臨時の役職」であったが、鎌倉時代の源頼朝以降、武家の棟梁の役職と看做される様になっている。
それとともに、征夷大将軍の本営を意味する幕府が「武家の政庁」、ひいては政権そのものを指すようになったのである。

征夷大将軍宣旨

征夷大将軍宣旨
「内大臣源朝臣」というのが家康の事であり、源氏として征夷大将軍に任ぜられた事が分る

政権運営は「合議制」で独裁ではない

家康が征夷大将軍になったからといって、一人で政務を執るわけではなかった。
その為、実際の政権運営は、老中などの要職に就いた大名による合議制で行わせている。

高度な地方分権も出来ていた

このとき、老中などの要職には、石高の少ない譜代大名が登用されており、石高の多い外様大名がそうした要職に就く事はなかった。
家康は“石高の多い大名”には、逆に“権力を持たせない”様にして、独裁を未然に防ごうと考えたのだろう。
老中などの政権を執る者に“武力”を持たせれば“権力の暴走”を引き起こす、歴史がそれを証明している。
その為、「徳川の直轄領」も、日本全土に睨みを効かせるほど強力なモノではいけなかった。
地方の外様大名は政権に参加できない代わりに、強大な石高だけは持つ事が許されたのだ。

“将軍らしく振舞う”にも役職が必要だった?

なお、家康は征夷大将軍と同時に、源氏長者淳和・奨学両院別当にも任ぜられ、牛車兵仗宣旨を受けた。
源氏長者とは、源氏一族を代表して祭祀や叙爵などの推挙を統轄する立場で、淳和・奨学両院別当というのは、淳和院と奨学院という役職の長官であるが、いずれも名誉職であり、職務があったわけではない。
牛車・兵仗宣旨は、牛車に乗ったまま内裏の門から入る事ができ、また、参内するときに兵仗すなわち武器を持ったまま家臣を引き連れても良い、という権利の事をいう。
本来は、段階を踏んで許されるものであったが、家康の場合は、征夷大将軍への就任と同時に認められたのであった。

征夷大将軍に任じられた家康が返礼に参内する行列
『東照社縁起』第二巻「参内」日光東照宮蔵

豊臣秀頼への配慮

秀吉との約束を守り、孫娘を豊臣に嫁がせる

天下の家老に過ぎなかった家康が政権を樹立する事は、大坂城の豊臣秀頼を刺激する事にもなる。
そこで家康は、豊臣方に配慮して、孫の千姫を秀頼に嫁がせる事にした。
この結婚は、家康が秀吉の臨終の際に約束したモノであり、これを実行に移す事で豊臣方を安心させようとしたのだろう。

幼い子ども同士の結婚

秀頼と千姫との婚儀は、7月28日、大坂城でとり行われた。
このとき、秀頼は11歳、千姫にいたってはまだ7歳であった。
幼過ぎる二人の結婚は“家康は秀吉との約束を守る”というアピールでもあっただろう。

秀吉との約束が“家康の将軍就任を許す”結果に

家康が秀吉との約束を守ったゆえか、家康の征夷大将軍就任に対し、豊臣方から表立った批判は起こらなかった
豊臣方としては、家康の政権樹立も当面の事で、秀頼が成人した時には、“政権を返す”ものという認識を持っていたようである。

江戸に幕府を開く

征夷大将軍となった家康が、政権の本拠地としたのは、それまで居城にしていた江戸であった。
その為、以後の政権を江戸幕府という。

何故、家康は江戸を選んだのか?

家康が江戸を選んだのは、もともと居城が江戸に在ったという事もあるが、鎌倉幕府と同じように朝廷から距離を置き東国で政権を確立させる為であった。
鎌倉は“海と山に囲まれる”天険の要害であったが、それだけに城下町の発展は期待できない。
その為、敢えて江戸を選んだのだった。
また、もともと家康が江戸に移ったのは「秀吉の命令」であった。
その為、将軍就任後も秀吉からの命を守り続ける事で、豊臣方への刺激を避ける狙いもあったかも知れない。

諸大名が江戸を拡張「天下普請」

幕府が置かれた事で、江戸が日本における政治の中心となった。
家康は、早くも江戸城と城下町の拡張工事を行ったが、この工事には諸大名が動員された事から「天下普請」と呼ばれている。

江戸に幕府が置かれ、急速に都市として発展

家康がいた頃の江戸の人口は15万人程であったという。
しかし、城と城下町の拡張工事がその後も続けられた結果、江戸は人口100万を超える世界有数の大都市になっていった。


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