豊臣秀吉の政策

豊臣秀吉の政策

政権を握った豊臣秀吉が全国を統轄する。
各地を次々と手中に収めた秀吉は、全国を統轄する為に様々な事業を行いながら、発令も行った。
秀吉が執った政策は、これまでの日本の統治を根本から見直す斬新なモノであった。
升の形から見直す正確な検地である「太閤検地」などであった。

検地の図(安藤博編『徳川幕府県治要略』より)

検地の図(安藤博編『徳川幕府県治要略』より)

天下統一を果たした秀吉

関東の北条家を破った秀吉は、かつての主君であった織田信長も果たせなかった天下統一の夢を見事に実現させた。
奥州の伊達政宗も秀吉にとっては脅威であったが、既に臣従の姿勢を見せていたので、刃を交える事はなかった。
この時点で既に、秀吉に逆らう大名はいなくなった。

徳川家康も秀吉に臣従する

小牧・長久手の戦いの戦いで徳川家康とは、戦の後に和睦したものの、翌年に関白となった秀吉が家康に上洛を求めたが、家康は承諾しなかった。
そこで秀吉は関白就任の翌年となる天正14年(1586年)に、妹に当たる朝日姫を家康に嫁がせ、さらには母である大政所を人質として家康に送った。
この秀吉の政略により、家康は上洛を承諾し、実質、秀吉の臣下となったのである。
家康をも従え、天下統一を成功させた秀吉は、次に太平の世を作り、その支配力を日本全国へ及ぼす為の政策を実行した。

惣無事令

関白となって国政を行うようになった秀吉は、天正13年(1585年)に「惣無事令」を全国各地の大名に発した。
法令の主な内容は「大名間の領土紛争」「村同士の水論・山論」を禁止する事であった。
世の中の争いを無くす事が目的の政策だ。
秀吉は、この政策に従わなかった事を大義名分に、関東の後北条氏を滅ぼしている。

太閤検地

天下統一前からはじまった検地

天正10年(1582)、山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、早くも山崎周辺の寺社地から土地の台帳を集め、土地の権利関係を確認している。
これが「太閤検地」へと繋がっていき、つまり、太閤検地は天下統一の前から既に始まっていたのだ。

土地の生産力を正確に把握

秀吉が執った政策の中で特に有名なモノが「太閤検地」だ。
太閤検地とは、その土地どれだけの量の米を生産出来るかを吟味して調べ、かつ、その土地の税を支払う者が誰かを明らかにするものである。
秀吉は支配地となった土地を隅々まで綿密に調べていった。
太閤検地により、村落にどれだけの田畑があり、どれだけの生産力があるのかが全国的に記録されるようになった。
田畑の面積と石高(収穫量)、耕作者(租税負担者)は検地帳に記載された。

各地の大名が持つ国力(石高)を正確に数値化

米1石は大人1人が1年間に食べる量を指す。
大名の力を「○万石」などと石高であらわすのは、石高が、土地の生産性をもとにして動員可能な軍事力の大きさを示すとともに、農民への年貢負担を示すものであったからである。
こうして、村落民の年貢負担や大名の軍役負担は石高によって算出された。

土地・資源の不均衡が、争いを生んでいた

戦国時代は戦国大名が自らの領国内のみを管理したため、資源の再配分が行われていなかった。
そのため、豊作と凶作の地域がそれぞれあっても、米を融通することが難しかった。
こういった資源の不均衡が、村落や国同士の争いを生んでいた。

戦を終わらせるには土地の生産力を測る必要があった

天正年間(1573〜1592)に秀吉は、大名同士の私闘を禁じる「惣無事令」を出しているが、これを実現させるためには戦の原因となる資源の不均衡を是正する必要があった。
そのためにも、何処でどれだけの米が収穫できるのかを把握することは重要だったのである。

石高制

各所に有る田が米をどのくらい生産出来るかを示す単位を決める為に「石高制」を導入した。
その際に度量衡の一本化を行い、米の量を計る秤の単位まで統一させた。
※度量衡とは、物理量の測定、或いは物理単位の事 この政策により、今までは自己申告制であり、よく把握出来なかった農民たちの米の生産量を的確に把握出来るようになった。

ばらばらだった単位を統一

戦国時代の度量衡(長さ・体積・重さ)は地域によってバラバラだったからだ。
同じ1尺(長さの単位)であっても地域差があった。
そのため、数字上は同じ面積であっても、実際の広さが異なることが多くあった。
そこで秀吉は、度量衡を統一した。
そして、6尺3寸(=1間=約1.92メートル)の検地竿を用いて、1間四方を1歩、そして、1町=10段=100畝=3000歩とした。
次に収穫量だが、米の量を測定する升は京枡に統一された。
京枡は、1辺約15センチ、深さは約8センチで、1石=10斗=100升となる。
また1石が取れる面積は1段(300歩)とされた。

田畑(その土地)の生産力にあわせて年貢率を決める

もっとも田畑によって、1段の収穫量が1石を上回ることもあれば、下回ることもある。
そのため、田畑の収穫能力に応じて、上・中・下の3ランクに分類した。
上田は1石5斗、中田は1石3斗、下田は1石1斗が収穫できる田とした。
このように、年貢率も田のランクによって異なっていた。

自由な航行と安全を保証

航行の自由を確保し、海上物流が活性化

度量衡を統一したことで、日本各地で円滑に商いが行えるようになったが、移動の安全が保証されなければ経済は活性化しない。
そこで秀吉は、海賊禁止令を出している。
当時の瀬戸内海は、村上氏などの海賊衆が勢力を持っており、通行税などを徴収する代わりに航行の安全を保証していた。
秀吉はこれらの海上権益を剥奪し、自由な航行と安全を保証した。
これによって海上物流が活性化した。

許可制の海外貿易〜東南アジア

朱印状がなければ、海外渡航はできず

秀吉は、海外貿易も積極的に行い、日本との交易の窓口を閉ざし続けた明との貿易から、九州の諸大名が行っていた東南アジアとの貿易に注目した。
海外との貿易を許可制に切り替え、商人や諸大名には許可証である朱印状を発行した。
この朱印状がなければ、海外渡航を行うことはできなかった。

海外貿易で諸大名も潤う

東南アジアとの貿易は、朝鮮出兵の最中にも行われ、文禄2年(1593)、朝鮮に出兵中の加藤清正は国許に貿易船の建造を命じ、銀と輸出用の小麦を積載した船をマニラに渡航させた。
そして、高い利潤をもたらす生糸や絹織物などの絹製品や陶磁器を買い付けた。

シャム(タイ)から鉛を輸入

このほか重要だったのが、銃弾の原料となる鉛である。
鉛は当時の日本では多く産出できないもので、シャム(タイ)のソントー鉱山から産出された鉛がマニラを経由して盛んに輸入された。

海外貿易が戦の強さも支えた

例えば、大量の鉄砲が戦場に投入された長篠の戦いで使用された銃弾の成分分析を行ったところ、ソント鉱山の鉛が使用されたことがわかっている。
鉛の輸入は清正による命令というよりも、豊臣政権の意向によるものだろう。

刀狩り

当時の農民は、戦が在れば農具を刀に換えて戦場に馳せ参じるというような農民が多かった。
その為に武士との境目が非常に曖昧だったが、豊臣秀吉はこれを是正し、農民を完全に支配できる様に「刀狩り」という政策も執った。

刀狩りの目的

刀狩りという政策は、文字通り農民たちが独自に隠し持っていた武器を接収する事である。
農民が武器を持っていては、武器を取って反乱しかねない、という事から、この政策が施行されたのだ。

全ての武器を回収できた訳じゃない

秀吉は刀狩りを行う際に、その名目として「大仏建立の材料に使う為に武器を差し出せ」と命令した。
相当量の武器が回収されたが、実際のところ農村に隠されていた武器類は膨大な量であった。
いくら秀吉の命であっても、全てを回収させる事は出来なかったという。
そもそも、田畑を荒らす害獣などを駆除する為には武器が必ず必要であり、全ての武器を回収すれべ、農耕に支障が出るのだ。

人掃い令-戸籍登録

「人掃い令」は関白を譲った豊臣秀次が発令した法令ともされるが、秀吉が発した「身分統制令」にも同様の内容が在った。
これはいわゆる戸籍調査の実施で、一村の人数や性別、職業を書類に明記する事を義務付けたモノ。
これによって、士農工商の基礎が出来上がり、身分制度はさらに進化した。

バテレン追放令

当初、秀吉は南蛮文化に寛容だった

民衆の宗教政策においても、秀吉は「伴天連追放令(ばてれんついほうれい)」を発布している。
当初、秀吉は信長と同様にキリスト教文化(カトリック)には寛容な姿勢を見せていた。
むしろ秀吉は南蛮渡来の調度品や先進技術などには、かなり興味を見せており、その価値も認めていた。

秀吉が九州を訪れ事態が動く

しかし、キリシタン大名が多かった九州で、秀吉がキリシタン達の信仰を目の当たりにした事で事態が変わった。
キリスト教日本にとって危険な宗教であると判断し、突如「伴天連追放令」を発布したのである。
キリシタン大名の高山右近はこの秀吉の命に逆らった為に、所領を没収されている。

南蛮貿易は続く

キリスト教の布教を禁止した秀吉だったが、相変わらず南蛮品には関心を示していた。
結果として秀吉は、南蛮との貿易そのものは中止せずに続けた。

秀吉の茶道

秀吉は武人としての才覚も確かであったが、同時に雅(みやび)の世界にも心を傾けていた。
秀吉は和歌や連歌、または茶会や能などを盛んに開催した。
特に茶の道については、「茶聖」と呼ばれる千利休を重用し、利休が創始した「侘茶」を身に着けていた。
だが、実際は「茶室は密談の恰好の場所」と配下の黒田官兵衛にも話している事から、茶道を政治の場の道具として扱っていた事も事実だ。


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