手取川の戦いは1577年11月3日(天正5年9月23日)に加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した合戦である。
柴田勝家率いる織田軍は、七尾城へ向かう為に手取川を渡ったところで、七尾城陥落の報せが届く。
慌てて撤退を開始した織田軍であったが、上杉軍の襲撃を受ける。
上杉軍の素早い動きの前に成す術のない織田軍は、約1000人が死傷、さらにそれ以上の兵士が溺死したと云われる。
北陸に拠る一向一揆衆を攻めた時の行賞により越前8郡を与えられた柴田勝家は、実質的に北陸方面の責任者となった。
加賀(石川県)の一向一揆衆は精強であり、勝家のほか、前田利家、佐々成正など合わせて一万人の軍をもってしても平定できずにいた。
そして1577年閏7月、越後の上杉謙信が南下して来た。
この南下は、足利義昭が謙信に対して、信長打倒を呼び掛けた事によるものであった。(信長包囲網)
この報せは信長によって脅威であった。
北陸にいる軍勢だけでは敗北すると思った信長は、丹羽長秀、羽柴秀吉らの有力武将を援軍として送り込み、信長軍は総勢3万人の大軍となった。
しかしその頃、信長軍の中では秀吉が勝手に戦線を離脱して長浜城に帰るなど、不協和音が生じていた。
一方、謙信は、七尾城を攻め落とし、続いて末森城、松任城を落としていった。
23日、勝家は手取川を渡って加賀へと兵を進めていたが、七尾城落城の一報が入り、自軍が不利な状況にある事を知ると、撤退を開始する。
謙信はその隙を逃さず、勝家軍に襲い掛かった。
折からの大雨で増水していた手取川に、追撃された柴田軍兵士は馬もろとも流され、多数の溺死者を出してしまう。
戦いの後、謙信は「案外に手弱の様体(織田軍は案外弱い)」と述べたという。
謙信が深追いしなかった事は信長にとっても幸運であったかも知れない。
同時期に、松永久秀が信貴山城で反旗を翻した事もあり、武田信玄の死後、劣勢に立たされていた信長包囲網の勢いは謙信の死まで一時的に盛り返す事になる。
更に、天正5年10月に越前国で上杉方についた一向一揆衆と織田方との争いが起こっており、上杉方が加賀南部から越前までその勢力を伸ばしていたようだ。
>> 第二次信長包囲網