昭和19年(1944)9月15日〜11月27日
ペリリュー島の戦いは1944年9月15日〜11月27日に行われた日米戦争(太平洋戦争)のひとつ。(ペリリュー島はフィリピン近海パラオの島の一つ)
第二次世界大戦において、日本が占領していた遠方の島の防衛手法が「上陸させずに戦う」既存の作戦指導から「上陸させてから戦う」持久戦(ゲリラ戦法)に変わった転換点といえる。
戦い方は合理的であったが、結局は米軍がペリリュー島を占領し、1万22人の戦死者を出す結果となった(米軍戦死者2336人)。
現在パラオ共和国の領土であるペリリュー島は南北約九キロ、東西約3キロの小島だが、当時、東洋一といわれた日本軍の飛行場があった。
マリアナ諸島を押さえた米軍はいよいよフィリピンへと矛先を向け、その足がかりとしてペリリュー島に目を付けた。ペリリュー島の飛行場を拠点にフィリピン・レイテ島の日本軍を叩こうという作戦だ。
こうして小島を舞台にアジア・太平洋戦争の中でも稀にみる激戦が繰り広げられることとなった。
ペリリュー島の守備は歩兵第二連隊が中心となり、この部隊を率いた守備隊長が陸軍大佐の中川州男だった。
中川大佐はサイパン島が民間人を巻き込んで玉砕した教訓から、ある作戦を立てた。
米軍が上陸した地点で一挙殲滅するという、大本営の作戦指導である水際撃滅作戦を捨て、全島に洞窟と地下道を掘って島をまるごと要塞化した。
ゲリラ的に長く戦う方針をとったのだ。
さらに邦人だけでなく現地住民も他の島に強制疎開させた。
この結果、激戦にもかかわらず民間人の被害はほぼゼロに抑えられたのだった。
昭和19年(1944)9月15日、米軍はペリリュー島に上陸開始。ガダルカナルの戦いで活躍した「米軍最強」の第一海兵師団など、日本軍をはるかに上回る兵力や装備を投入した。
ウィリアム・ルパータス師団長は「2、3日で片づく」と豪語したという。
しかし、米軍は上陸するまで地下陣地(洞窟陣地)の存在を掴んでいなかった。
上陸地点のオレンジビーチにはわずか600人あまりの日本軍が控えていた。他は持久戦のため後方に配置されていた。
しかし、日本軍はこの少人数で第一次上陸部隊を撃退。激しい攻防の末、米軍はようやく上陸する。
ここで日本軍は、バンザイ突撃はせず、島内に退いていった。
中川大佐は自殺行為に等しい「バンザイ突撃」を禁止し、守備陣地が破られた場合は島の中央部に転進するよう厳命していたのだ。
米軍は飛行場を占拠したが、日本軍は地下陣地(洞窟陣地)を使って神出鬼没に反撃。
縦穴と横穴が直角に結ばれた構造をもつ地下陣地は、敵が手榴弾を投げ込んでもその爆風から逃れることができた。
手を焼いた米軍は火炎放射器を使って地下壕を攻撃。
日軍兵士は飢餓と水不足に苦しみ、米軍兵士はどこから攻撃してくるか分からない恐怖と疲労にさいなまれ、果てしない殺し合いが続いた。
しかし、次々に増援部隊を送り込む米軍に対し、日本軍には持久戦の先の展望はなかった。
玉砕を禁じられ、「神機」が来るのを待ちながら戦い続けるしか選択肢はなかった。
「サクラ」の電報を最後に玉砕し、中川大佐は地下壕内で自決した。
ペリリュー島では玉砕を知らず、密林の洞窟内で戦い続けた兵士がいた。
彼らが投降したのは、終戦から2年後のことだった。
投降した34人は、戦いを生き抜いた最後の生存者となった。
二ヵ月以上の持久戦に持ち込んだペリリュー島の戦いは、日本軍の戦略・戦術を大きく変化させた。
硫黄島の戦いや沖縄戦にもこの作戦が取り入れられたのだ。
しかしそれは先の展望が見えない中で、絶望的な持久戦を強いられることをも意味していた。