昭和19年(1944)10月23日〜10月25日
レイテ沖海戦(Battle of Leyte Gulf)は、フィリピン周辺海域における日本海軍とアメリカ・オーストラリア海軍の海戦。フィリピン奪回を目指して侵攻するアメリカ軍を日本海軍が総力を挙げて迎撃したが、日本側の敗北に終わる。日本海軍はこの海戦を最後にして事実上消滅した。
昭和19年(1944)10月、すでに敗色が濃厚だった日本軍が、フィリピンのレイテ島に上陸しようとしていた米軍に対し、捨て身ともいえる陸海空統合作戦を挑んだのが、「捷一号作戦」である。
その前半部分で、この作戦全体の成否を握っていた大海戦が「レイテ海戦」(日本側呼称は比島沖海戦)だ。
戦闘が行われた海域は東西約1111キロ、南北約370キロという、日本全土の約1.4倍に相当する広大なもので、10月23日から26日までの四昼夜に渡って繰り広げられた。
参加した水上艦艇は日本側が戦艦9、空母4、重巡洋艦13、軽巡洋艦6、駆逐艦31隻。それを4つの艦隊に分け、同時刻に別々の海域で戦闘に参加させている。
対するアメリカ側は軍艦だけで約170隻、上陸用舟艇を含めると900隻近くとなった。これに航空機も加わり、その数は日本側が陸海軍合わせ716機、米軍側は1280機という、まさに史上最大の戦いと称してもいいスケールであった。
本土と南方の資源供給路を確保するための連絡圏にあるフィリピンに米軍が進攻して来ると、南方から石油はじめ戦略物資が輸送できなくなる。さらに台湾や沖縄が攻められるのも時間の問題で、本土に米軍が上陸するのも現実味を帯びる。
フィリピンを米軍に抑えられてしまったあとまで艦隊を温存していても、動かす油もなく意味がないことになる。大本営も連合艦隊司令部も、それを阻止するために、連合艦隊をすり潰すのもやむを得ないと決断。
その切っ掛けとなったのは、同年7月9日、日本が「絶対国防圏」と位置付けていたサイパン島が陥落したことであった。
これにより日本軍は最後の決戦場をフィリピン、台湾及び南西諸島(琉球)、北東方面(千島、樺太、北海道)のいずれかの地域に求めることを検討。
陸海合同研究を実施し、乾坤一擲の決戦構想を決定した。これが「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」である。
ここで米軍を阻止しなければ、日本にはあとがないとの思いに至ったのだ。
内容は「陸海空の戦力を極度に集中し、敵空母及び輸送船を必殺。敵が上陸すれば地上に必滅する」というものであった。海軍はこの決戦に基地航空部隊、機動部隊、その他の海上部隊、潜水部隊を含む残存する連合艦隊の総力をあげる。その作戦要領は以下の通り。
基地航空部隊は、敵機動部隊の攻撃を回避。そのうえで第五、第六、第七基地航空部隊は全力を集中、適宜進出。水上部隊も敵上陸地点に殺到する。基地航空部隊もこれにならう。敵が上陸に成功すれば、増援部隊を撃滅して増援を阻止。陸上兵力の反撃とあいまって、敵を水際で撃滅する。これを実現するための各部隊の役割も、次に記しておきたい。
航空部隊は一航艦すなわち第一航空艦隊(第五基地航空部隊)及び二航艦(第六基地航空部隊)の全力をフィリピンに集中。三航艦(第七基地航空部隊)と一二航艦(第二基地航空部隊)は第二線兵力として内線に待機し、命令があり次第フィリピンに進出する。
水上部隊は第一遊撃部隊(栗田艦隊)がリンガ泊地、第二遊撃部隊(志摩艦隊)と機動部隊本隊(小沢艦隊)は内海西部に待機。敵の来攻が予期されたら第一遊撃部隊はブルネイ方面、第二遊撃部隊は内海西部または南西諸島方面に進出して待機する。機動部隊本隊は内海西部において出撃準備を整え特令で出撃。先遣部隊は敵の来攻が予期されたら、散開配備につく。
というものだった。
そして作戦実施に先立ち、8月10日にマニラで打ち合わせが開かれた。主な参加者は連合艦隊司令部作戦参謀の神重徳大佐、軍令部作戦部の榎尾義男大佐、現地の南西方面艦隊司令長官三川軍一中将以下、第一南遣艦隊の参謀たち、栗田艦隊司令部からは参謀長の小柳富次少将、作戦参謀大谷藤之助中佐ら。
その席上、小柳参謀長が作戦計画の説明に対し問いただした。
「敵輸送船団を撃滅しろというならやりましょう。だが敵艦隊が全力で阻止してきた場合、輸送船団を棄てて敵主力の撃滅に専念するが、差し支えはないか?」
対して神参謀は「差し支えありません」と答えている。
それを聞いた小柳は「これは大事な点であるから、よく長官に申し上げておいてくれ」と、念を押している。
このやりとりが、のちに大きな意味を持つ。
昭和19(1944)年10月10日、南西諸島の広い範囲が米軍の空襲にさらされた。那覇港所在の艦船は甚大な被害を受けるとともに、那覇市街の大半が焼失した。
さらに12日には台湾にも大規模な空襲が行われた。
これに対して日本側は12日から16日にかけ台湾や九州南部といった国内の基地はじめ、フィリピンの基地から飛び立った航空機が、米機動部隊への攻撃に出撃した。
この台湾沖航空戦の戦果を、大本営海軍部は「空母11を含む戦艦巡洋艦など撃沈17隻、空母8を含む28隻が大破」と発表。だがこれは未熟な搭乗員の完全な誤認であった。(実際はアメリカ軍の損害は軽微なもので、損害は日本の方が大きかった)
ところがこの虚偽の大戦果は、その後の戦闘で、日本軍に大きな油断を生み出してしまう。
10月16日、リンガ泊地にいた栗田艦隊に、台湾沖航空戦の「残敵」が台湾東方で確認されたので、これを掃討するよう出撃命令が下令された。
ところが翌17日、栗田艦隊はレイテ湾の入口にあるスルアン島海軍見張所から、米軍上陸を知らせる緊急電を受信する。
それに続き連合艦隊司令部より、捷一号作戦警戒が入電。さらに「第一遊撃部隊は速やかに出撃、ブルネイに進出すべし」との命令を受けた。台湾沖での戦果を信じていた日本側は、米軍の大部隊が上陸を始めるまで、すっかり油断し切っていたのである。
こうして戦艦「大和」「武蔵」「長門」を含む第一遊撃隊は、18日にブルネイに入港した。
そして燃料を補給しつつ、レイテ突入計画の策定を行っている。
そこで艦隊を二手に分け、本隊はシブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けて、サマール島東岸に沿って北からレイテ湾へ向かう。
戦艦「山城」「扶桑」以下、船足の遅い旧式艦を主力とした西村艦隊(西村祥治中将指揮)は、ミンダナオ島北方のスリガオ海峡を抜ける近距離でレイテ湾を目指した。
この艦隊にはスルー海から重巡「那智」「足柄」を中心とする第二遊撃部隊(志摩清英中将指揮)が合流する予定であった。
これらの突入部隊が米空母機動部隊の艦載機に攻撃されないように、小沢治三郎中将が指揮する機動部隊が囮となって、米機動部隊を誘い出す。
その隙を突いて三艦隊同時に米上陸部隊の壊滅を狙ったわけだ。
小沢機動部隊の陣容は残存する空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」を中心とする17隻だった。
だが小沢艦隊よりも先に、残りの三艦隊が米側に発見される。
米軍は栗田艦隊を集中攻撃し、戦艦「武蔵」を撃沈する。
このままでは全滅しかねないので、栗田艦隊は一時退避する。その間に西村艦隊がレイテ湾の入り口に到達。結果は米軍のレーダー射撃で全滅。
志摩艦隊は遅れて到着したが、西村艦隊全滅を知り台湾へと引き揚げてしまった。
その頃、ハルゼーの機動部隊が小沢艦隊を発見し、追撃を開始した。
その間、栗田艦隊は再びレイテへと進撃。レイテ湾を指呼の間に臨む地点まで進出する。
そこで栗田艦隊は米護衛空母部隊と遭遇。これを正規空母による機動部隊と誤認し、攻撃しようとするが、発艦した航空機や駆逐艦から逆に攻撃される。
それでもレイテ湾の入り口には到達したので、直進すれば湾内の輸送船団を攻撃できた。だが栗田は作戦中止を命じ、全軍を北へ向けた。世にいう「謎の反転」である。
こうしてレイテ海戦は、日本海軍の惨敗という結果で幕を閉じた。
この謎の反転に関して、栗田中将は戦後になってもその理由を語ることはなかった。
レイテ海戦で初めて「神風特別攻撃隊」が出撃した。
これは海軍の第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将の命により編成されたもので、航空機から爆弾を落とすのではなく、爆弾を抱えたまま航空機ごと敵艦に体当たりする攻撃法だ。
当然、搭乗員は生還できない。
しかし、もはや日本の劣勢を挽回するには、この方法しかないと信じての導入であった。
最初の攻撃隊の隊長に任じられたのは関行男大尉で、彼はわずか23歳だった。
玉井浅一中佐に指名された際、関は「ぜひやらせてください」と即答したとも「一晩考えさせてください」と答えたとも伝えられている。
最初の出撃は空母2隻を大破、護衛空母「セント・ロー」を撃沈する戦果を挙げた。
以後、終戦まで航空機だけでなく人間魚雷など、多くの特攻隊が編成されている。