昭和19年(1944)6月15日〜7月9日
第二次世界大戦(太平洋戦争)において太平洋マリアナ諸島サイパン島は日本軍の占領地であった為、米軍の攻撃を受け、陥落する。
東京の大本営はこのサイパン島を守り抜けるつもりだったのだが、当のサイパン日本軍は既に戦車するら満足に持っておらず、まともに太刀打ちする事はできなかった。
日本軍は「バンザイ突撃」を行って玉砕全滅したが、同行した民間人も集団自決の道をたどった。
サイパン島の陥落により米軍による日本本土への空襲が可能となり、以降、爆撃は激化していく。
太平洋に浮かぶマリアナ諸島のサイパン島は、戦術的に重要な意味を持っていた。米軍の爆撃機が燃料補給なしに日本本土の主要都市を攻撃できる距離に位置していたためだ。
当時、サイパン島をはじめとするマリアナ諸島は、事実上の日本領だった。グアム島のみ戦争以前はアメリカ領で、戦争初期から日本が占領していた。日本本土爆撃に向けたB2爆撃機の発進基地として、またグアム島奪還のための足がかりとして必要とされたサイパン島は、マリアナ諸島への米軍水陸共同作戦の最初の目標となった。
昭和19年(1944)6月15日、米軍はサイパン島に上陸。上陸に先立ち、空爆と艦砲射撃で主な陣地と飛行場を徹底的に破壊した。サイパン島には日本軍守備隊約4万3000人が固めていた。米軍が上陸した時、東京の大本営は必ず撃退できるという自信を持っていた。
米軍の上陸部隊約2万がリーフ(サンゴ礁)を越えて海岸に迫ると、日本軍は爆撃から逃れた貴重な大砲で迎え撃った。日本軍の激しい砲火に米海兵隊は苦しめられたが、その後の日本軍による夜襲は失敗。日本軍は兵力の六割を失い、後退を余儀なくされた。
すでに戦車を失っていた日本軍は、爆弾を抱えて戦車へ体当たりする肉薄攻撃を敢行。錯綜する地形を利用し猛烈な抵抗を試みたが、強力な迫撃砲と航空攻撃に支援された米軍の攻撃によって、しだいに組織的な抵抗能力を失っていった。
追い詰められた日本軍は、民間人とともに島の北端を目指した。
「戦陣訓」で「生きて虜囚(捕虜)の辱めを受けず」と教え込まれた軍人たちは、当然のように玉砕の道を選んだ。
日本軍の最高指揮官三人は、部隊の玉砕突撃に先立ち割腹自決。「続け」の言葉に促され、最後の玉砕突撃に参加した者は約3000人といわれ、この中には軍人ではない者も含まれていた。
「天皇陛下万歳!」と叫びながら身を伏せることなく突進していった、「バンザイ突撃」である。
しかし米軍は事前に総攻撃を察知しており、全軍が警戒態勢にあった。待ち伏せされた日本軍は大半が撃ち殺されて全滅した。
日本軍に同行しマッピ岬まで追いつめられた民間人は、崖から身を投げ、自決した。
サイパン戦は多数の民間人を巻き込んだ最初の地上戦となった。
サイパン島の防衛に絶対の自信を持っていたはずの日本軍が敗北した最大の理由は、制空・制海権を掌握した米軍の強襲上陸作戦能力を過小評価していたことにあった。
当時、参謀本部の要職にあった真田穣一郎(元少将)は、戦後なぜサイパン島の防備強化が遅れたのかという質問に対して、「サイパンを攻略されるまで、その考えに至っていなかった。米軍が航空支援のもと上陸作戦を強行可能だと判断していなかったことが、呑気であった一因だ」と回答している。
「呑気」な幕僚の最大の犠牲となったのは、日本軍兵士と集団自決に巻き込まれた民間人だった。
この頃から、絶望的な戦闘を強いられた日本軍兵士たちの戦意は確実低下していった。そしてサイパン島陥落により日本の敗戦は決定的となり、以後、戦局は見通しのない絶望的抗戦へと移行していくのである。
サイパン島北端のマッピ岬に追いつめられた日本軍は「バンザイ突撃」を行って全滅したが、日本軍に同行した民間人もまた、集団自決の道をたどった。
この様子を目撃したアメリカ人従軍記者は、父親が子どもを崖から海中へ投げ落とす姿といった、惨劇の姿を書き残している。崖から投身を図る民間人に対して米軍は投降を呼びかけたが、拒絶する者が多かった。捕らえられることの恐怖に加え、軍人と同様に捕虜となるよりも自決することが最高の愛国心の実践だと教え込まれていたからだ。
投身自殺した民間人は8000人とも1万2000人ともいわれる。多くの民間人が身を投げたマッピ岬の断崖は、「バンザイクリフ」と呼ばれるようになった。