バルバロッサ作戦

バルバロッサ作戦

ドイツはソ連と結んでいた不可侵条約を一方的に破棄し侵攻を開始する。
バルバロッサ作戦と名付けられたソ連侵攻作戦は、レニングラード・ウクライナ(キーウ)・モスクワを目指して進軍を開始した。
しかし、ドイツ軍は北方都市モスクワの「寒さ」という天然の要害に阻まれ戦闘継続が困難となる。(1941年6月22日〜12月5日)
第二次世界大戦におけるドイツの快進撃は、このバルバロッサ作戦の失敗で止まった。
バルバロッサ作戦の開始から失敗までを簡単にまとめる。

バルバロッサ作戦発動

独ソ不可侵条約をドイツが一方的に破棄

独ソ不可侵条約を一方的に破棄したドイツは、宿敵スラブ人撲滅を掲げ、1941年6月22日にソ連への全面的大侵攻作戦「バルバロッサ」を発動した。

北・中央・南、3方向からの電撃攻撃

同作戦は、フォン・レーブ元帥が指揮する「北方軍集団」、フォン・ボック元帥が指揮する「中央軍集団」、フォン・ルントシュテット元帥が指揮する「南方軍集団」という3つの軍集団が、それぞれソ連国境の北・中央・南を東方へと貫き、一挙にソ連領内に侵攻する大規模な作戦であった。

ソ連側はドイツの動きを察していたが…

スターリンは粛清後の再編成に大忙し

このドイツ側の不穏な動きを事前に確認していたソ連軍部には、事態を危険視する将官も少なくなかった。
だがスターリンは、ドイツとの開戦はまだ先と判断し、大粛清後の部隊の再編成や兵器の増強を進めていた。

バルバロッサ作戦が緒戦は成果を上げる

ソ連が独裁であった故の穴を突かれた形となった

スターリンが粛清と再編に気を取られてしまっていた事もあり、「バルバロッサ」作戦は大きな奇襲効果をあげた。

ブレスト要塞(現・ベラルーシ)

ドイツ中央軍集団の進路の突進正面には、ブーク川に面して国境沿いに立つブレスト・リトフスク要塞が構えていた。
この要塞は、19世紀初期にロシア帝国が要塞として建設したものである。
なお、同要塞の「白の宮殿」では、第一次世界大戦でのドイツと新生ソ連との講和となる「ブレスト・リトフスク条約」が締結されていた。
また、このブレストとは、現在のベラルーシ西部の都市である。

潜水戦車が実戦使用

ドイツ軍による、約3000名のソ連兵が立て籠るブレスト・リトフスク要塞攻撃への第1波には、中止となったイギリス侵攻作戦「ゼーレーヴェ」のために開発された潜水戦車が加わっており、ソ連軍を驚かせている。

ソ連兵の祖国を想う悲しいメッセージ

同軍守備隊は頑強に抵抗し、ドイツ軍は7月8日に一応占領したが、散発的な戦闘が続いた。 しかしその後、要塞は完全に陥落。
要塞内には「私は死ぬが降伏はしない。祖国よさらば。1941年7月20日」というメッセージが書き残されていた。

ドイツの快進撃が続く

さらに、ドイツ中央軍集団はモスクワ街道沿いに快進撃を続け、「モスクワの西の門戸」ことスモレンスクに到達した。
しかし、ソ連側も同地の重要性を十分に理解しており、西部方面軍を配して守りを固めていた。

ドイツ軍に大苦戦のソ連軍

7月6日、ソ連軍は近づくドイツ軍に反撃を加えるも、逆襲を受け大損害を被って退却。
10日、ドイツ軍の先鋒がスモレンスクに達し、激しい市街戦が続いた。
ドイツ軍は、モスクワ街道の北沿いの第3装甲集団と、同街道の南沿いの第2装集団でスモレンスクの包囲を試みた。

ソ連軍兵が大量に捕虜に(2/3は脱出)

ソ連軍は損害を無視して増援部隊を遂次投入し、ドイツ軍の足止めとスモレンスクの確保に注力。
ところがドイツ軍の市街制圧戦術は巧みで、スモレンスクは同月16日夜までにドイツ軍に確保された。
しかし包囲環の連結が遅れたせいで、ドイツ軍はソ連軍将兵約30万人を捕虜にしたが、約20万人には脱出されてしまう。

ウクライナ守備のソ連軍は強固だった

ドイツ軍3個軍集団のうち、南方軍集団の正面のソ連軍は強力だった。
それは、ドイツが肥沃なウクライナを狙っているとソ連側が判断していたからだ。

しかし、ドイツ軍が凄まじい戦火を上げる

しかし、同方面のソ連軍南西方面軍司令官ブジョヌイ元帥は古い見識に立つ将官で、ドイツ軍の機動戦に対抗できる「新しい軍事知識」に欠けていた。
ドイツ軍が狙うはウクライナの要衝キーウ(現在のウクライナの首都)だったが、ここでも同軍は動きの遅いソ連軍を大包囲し、9月26日までに捕虜66万5000人、火砲約3700門、戦車約850輌という大戦果を得た。

ドイツがモスクワ占領を目指す

ソ連も損害を出しながら総力を上げてモスクワ防衛

この「バルバロッサ」作戦の第2段階は、ソビエトの首都モスクワ攻略を主目的とする攻勢作戦「タイフーン」で、スモレンスク占領から2ヶ月遅れの同年9月30日に発動された。
攻勢の主力は中央軍集団だった。
ソ連側もスターリンの大号令で首都防衛に総力をあげたが、稚拙な作戦指導と戦術のせいで、必死の防戦ながら大きな損害を出していた。

モスクワを救った「冬将軍」

冬の寒さによって戦闘継続が困難に

しかし10月中旬以降、「ロシアの秋の長雨」が降りだすと戦場のすべてが泥の海と化し、戦闘も補給も困難な状況に追い込まれる。
さらに11月に入ると地面が凍結。

モスクワまで16kmに迫ったドイツ軍

続いて、かつてナポレオンを敗走させた「冬将軍」が到来する。
この厳しい寒気と補給不足で、ドイツ軍の戦闘は困難となった。
それでも同車は前進し、12月4日にはドイツ第2装甲師団がモスクワまで16kmに迫った。

ドイツの快進撃がここで止まる

しかしソ連軍の反撃を受けてドイツ軍は攻勢を中止し、防勢と越冬のため戦線の再構築に着手。
かくして、モスクワ占領はかなわなかった。
ポーランド侵攻から第二次世界大戦においてドイツは快進撃を続けて来たが、それもここまでとなった。
これからドイツ軍は作戦の失敗が徐々に増え、やがて敗北を重ねていく事となる。


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