イタリア侵攻

連合国のイタリア侵攻作戦

ドイツのポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦、ヨーロッパの大部分がナチスドイツによって占領されてしまった。
そして、1943年7月、北アフリカから地中海を越え連合国軍が反撃の狼煙を上げる。
シチリア島を奪還した連合国軍はイタリアへ侵攻、イタリア政府を降伏へ追い込む。
イタリア降伏後もドイツ軍はイタリア防衛を続けるが、2年近い戦闘の末に1945年5月、遂にドイツが降伏、イタリアの領土は奪還された。(1943年7月10日〜1945年5月2日)

連合国が枢軸国へ反撃に出る

シチリア島上陸から始まった反攻作戦

北アフリカの戦いを制した連合軍は、いよいよ枢軸主要3国のうちの1国であるイタリアへの進攻の前哨戦として、1943年7月10日にシチリア島上陸作戦「ハスキー」を実施。
モントゴメリーが指揮するイギリス第8軍がシチリア島の東南側海岸に上陸し、島の東北端のメッシーナを目指して北上。
8月17日にイタリア本土が目と鼻の先にある要衝メッシーナを確保し、同島の占領を終えた。

あっという間にイタリア降伏

残されたドイツ軍だけが抵抗を続ける事に

シチリア島を掌中にした連合軍は、続いてイタリア本土へと侵攻。
メッシーナの対岸レッジオに上陸した9月3日の「ベイタウン」作戦や9日の「スラップスティック」作戦が実施され、同じく9日にはイタリア本土上陸の主作戦「アバランチ」がサレルノで行われた。
実は前日の8日にイタリアは降伏しており、防戦の主力はドイツ軍で頑強に抵抗したあと、意図的に次の防衛ラインへと後退した。

ドイツからイタリア領を奪還する戦いに

サレルノから後退したドイツ軍は、連合軍が進撃するには東西両側面の海岸線沿いの平地を進むしかない半島国家イタリアの地勢を利用して、ハードルを並べるように何列もの防衛ラインを構築。
その防衛ラインにぶつかるたびに、連合軍は足止めと多大な出血を強いられた。

防衛ラインが多く存在していたイタリア領

10月1日、連合軍はナポリに入城しロマに向けてさらに北上したが、その間にはヴィクトール、バルバラ、ベルンハルト、グスタフ、ヒトラー、シーザー、ゼンガーと、7つもの主要な防衛ラインが存在した。

モンテ・カッシーノの戦い

特にグスタフ・ラインでは1944年1月から5月まで長期の戦いとなった。
要衝モンテ・カッシーノの歴史的建築物の修道院で激戦が戦われた。
モンテ・カッシーノは、カッシーノ市郊外に位置する岩山であった。

連合国軍がローマ奪還

1944年6月4日にローマへ入城

実は連合国軍は、イタリア半島の幾重にも構築された防衛ラインを海上迂回する作戦を講じていた。
同年1月22日、「シングル」作戦でグスタフ線の背後のアンツィオに上陸。
ドイツ軍の防御を破る攻勢作戦「ディアデム」を5月11日実施し、6月4日にローマへと入城した。

連合軍はさらにイタリア半島を北上

その後、それまでと同様にドイツ軍の防衛ラインを突破しながら連合軍はイタリア半島をさらに北上。
ゴシック・ラインの死闘などを経てアペニン山脈を抜け、ポー平原に出る。
そして1945年5月2日、頑強にイタリアを守ってきたドイツ軍は降伏した。
残る枢軸国の主要国は日本だけとなった。


↑ページTOPへ