ベルリン陥落

ベルリン陥落

1945年4月16日〜5月8日

1945年4月、非武装の市民を巻き込みソ連がベルリン総攻撃を開始。
空襲には耐え忍んでいた民間人らも、ベルリン市内にソ連軍が迫ってくると避難を始めた。
4月30日にヒトラーが自決、5月2日にドイツ軍が降伏し、ベルリンはソ連に占領された。

壊滅寸前のドイツ軍、ソ連がベルリンに迫る

4月16日、ソ連軍がベルリンへ迫る

ソ連軍の攻勢で東プロイセンを失い、ハンガリーでの反撃作戦「フリューリングスエルヴァッヘン」に失敗したドイツ軍は、末期的状態を呈していた。
そして4月16日、東からベルリンへと迫るソ連軍の最後の一押しとなるオーデル・ナイセの戦いが始まった。

ソ連の大軍をドイツ軍は止められず

俗に「スチームローラー戦術」とも呼ばれ、全戦線で戦車部隊を先頭にして平押しで進むソ連軍得意の戦い方に、ドイツ軍も残された力を振り絞る。
ベルリン東方の最後の防御線たるゼーロウ高地一帯に、小規模だが強力な部隊を配置してこれを迎え撃った。
率いるハインリツィ上級大将は、巧みな用兵でソ連軍に大損害を与えて一時的に足止めした。
しかし、結局は多勢に無勢で押しされ、ベルリンへの門戸はこじ開けられてしまう。

ヒトラーは現実逃避に走る

ヒトラーが救援命令を出すも…

ベルリンの周囲には満身創痍のドイツ軍部隊がいくつか展開していたが、いずれも対峙する連合軍やソ連軍と戦っており、ヒトラーが発したベルリン救援命令に応じたくても辿り着けない状況だった。

戦況の悪さを受け入れられないヒトラー

4月20日、ヒトラーは56歳の誕生日を迎え、総統地下壕で誕生パーティーが開かれた。
めっきり老け込んで手がぶるぶる震える(パーキンソン病を患っていたといわれる)彼は、この席で「ソ連軍はベルリン正面で必ず敗退する」と語った。
しかしこの日からベルリン市中心部にソ連軍から射たれた砲弾が降り始めていた。
空軍が空からのベルリン脱出はもう困難なため避難希望者は今夜のうちに陸路で脱出するように勧告し、要人多数がこれに従った。

人事から覗える断末魔のヒトラー

22日、ヒトラーの後退禁止命令に反したと誤解され死刑が宣告された第3装甲軍団長ヴァイトリング大将は、その誤解を解くべくヒトラーと直談判。
すると、翌23日になんとベルリン防衛軍司令官に任命されてしまった。

市民を巻き込み、ソ連がベルリン攻撃

非正規軍まで戦力として配備するドイツ

全く勝ち目のないヴァイトリングの手元には、消耗した5個師団といくつかの武装SS戦闘団が存在し、その兵員数は約4万5000名。
これに補充兵員約4万名が加わったが、彼らはヒトラー・ユーゲント(ナチ党の青年組織)の少年や老人が中心で、まともな戦力ではなかった。
しかし、別個にベルリン官庁街を守る約2000名の武装SS隊員は期待できる戦力だった。

ベルリンがソ連軍に包囲される

24日、東から来た第1白ロシア方面軍の先鋒部隊が、北から来た第1ウクライナ方面軍の先鋒部隊と連接。
ついにベルリンを包む包囲環が完成した。
続いてソ連軍は、ベルリン市街地に立て籠るドイツ軍の掃討に着手。
もう後がないにも関わらず、ドイツ軍部隊は健闘し、攻めるソ連軍に少なからぬ損害を与えた。

ドイツ軍壊滅、ヒトラーも包囲される

25日になると、ソ連軍はテンペルホーフ空港へと向かい、ドイツ軍守備隊を排除して翌26日に占領。
そのため、ドイツ軍はベルリン中心部の狭い範囲に包囲状態となってしまう。
27日には、ヴァイトリングはヒトラーに脱出を進めたが、ヒトラー本人がこれを拒否する。

民間人が犠牲になる

この頃、ベルリンの地下鉄構内は、市民や負傷兵の避難場所だった。
ところが突然浸水し、その多くが犠牲となった。
この出来事は、以前はヒトラーの命令と言われていたが、近年では自然発生またはソ連軍説も唱えられている。

ヒトラー自決、ドイツ政府が機能不全に

愛人と結婚した翌日に自決

29日未明、ヒトラーは総統地下壕で愛人エヴァ・ブラウンと結婚し、翌30日に2人で自決した。
またこの日、ソ連軍第150狙撃兵師団が、ドイツ軍の最後の抵抗拠点のひとつ帝国議会堂に達している。
ソ連軍は5月1日のメーデーにここを占領したかった。
だがドイツ軍の熾烈な抵抗の前に、建物の掃討は難航する。

ドイツ第三帝国の終焉

ドイツ軍が降伏

5月2日、ヴァイトリングがソ連軍に降伏。
ヒトラーが自決してしまい、もはや降伏する以外になかった。
第三帝国の帝都ベルリンは、ついに「東方の宿敵」に占領されたのだった。

軍事的にはあまり意味がなかったベルリン占領

ソ連軍が先にベルリンを占領したことに対し、戦後のヨーロッパ体制を予想していたイギリスのチャーチルは憤った。
ヨーロッパ派遣連合軍総司令官アイゼンパワー元帥は、あくまで政治を排除した軍事的観点から、ベルリン占領ははじめから意図していなかったという。

占領後のベルリンではソ連兵による略奪や暴行が…

戦い終わったベルリン市内ではソ連軍がベルリン市民に食料を供給した。
しかし、これと同時に多数の地域で独ソ戦で受けた損害に対する復讐として、ソ連兵による暴行、略奪、殺害が横行し、さらに軍司令部は数週間に渡ってこの問題を放置した。
作家イリヤ・エレンブルクが「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!」と煽ったこともあり、ベルリン市内では約10万人の女性が暴行を受けたと推定される。


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