小磯国昭内閣は東条英機内閣に続く第二次世界大戦中の内閣で、サイパン陥落後に発足した。
小磯国昭内閣は特に終戦に向けた動きは取らず、戦局の挽回を目指すも失敗。
中華民国との単独和平工作も頓挫、辞任し鈴木貫太郎内閣に譲った。
小磯国昭内閣期間の日本の出来事を簡単にまとめる。(1944年7月22日〜1945年4月7日)
陸軍の将官コースを歩んだ小磯は、加藤高明内閣で陸軍大臣を務めた宇垣一成に引き立てられて軍中枢に入る。
しかし1931年、宇垣が三月事件で失脚した後は、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官などを歴任。
その後、予備役となっていたが、東条内閣で朝鮮総督に任命され、朝鮮の「皇民化」政策を推進する。
総理就任後は劣勢の挽回に尽力するが、万策尽きて辞任。
東京裁判で終身禁固刑の判決を受けた。
東条内閣退陣後の後継選びは難航し、重臣会議でいわば消去法のような形で小磯国昭の名前が浮上したが、木戸幸一内大臣と近衛文麿元総理はこれに難色を示した。
そこで、近衛の発案で、海軍の重鎮で元総理の米内光政との連立として、大命※を降下させることとなった。
※天皇が内閣総理大臣の候補者に組閣を命じること
しかし、小磯が内閣総理大臣となり、米内が副総理格の海軍大臣に任命されたものの、米内は積極的に小磯を補佐する意思は見せなかった。
小磯も重要な案件があってもほとんど米内に相談せず、自分の判断だけで進めることとなった。
なお、小磯は8月4日に「一億国民総武装」を閣議決定している。
小磯は戦局打開には戦争指導の一元化が必要と考え、最高戦争指導会議を設置した。
しかし、統帥部はあくまで政府の介入を拒んだ。
会議で小磯が発言すると「近代的作戦用兵を知らない首相は、口出ししないでいただきたい」とたしなめられる始末だった。
10月20日、マッカーサー率いる米軍がレイテ島に上陸すると、小磯はレイテ島の攻防を「天王山」とし、「決戦の火蓋は切られた。勝利は必ず我が方にある」と国民に訴えた。
しかし、日本軍は米軍に追いつめられ、25日にはレイテ沖海戦にも大敗してしまう。
日本軍は次々と部隊を投入するが、ほとんどが敗退し、物資の輸送もままならない状態に陥った。
11月には東京上空にB-2爆撃機が飛来するようになり、本土主要都市への空襲が激しさを増すなか、小磯は蒋介石の重慶政権を通じて連合国側との和平をはかろうと画策した。
そのキーマンが、日本の傀儡政権である南京政府の要職を務め、蒋介石の重慶政府にもパイプをもつという、繆斌である。
緒方竹虎国務大臣を通じて持ち込まれた和平工作案は、南京政府の解消、日本軍の中国からの撤退などを条件に、日中の全面和平を実現するというもので、小磯は繆斌を来日させ、最高戦争指導会議でこの和平案を提案した。(1945年3月)
しかし、重光葵外務大臣は繆斌を信用できない人物だと断じ、杉山元陸軍大臣、米内光政海軍大臣も重光の意見に賛同した。
1945年4月3日、天皇も繆斌の帰国を指示し、この和平工作は幻に終わった。
この繆斌は日本の無条件降伏後の1946年5月に不自然な形で処刑されている。
1945年の時点では蒋介石が日本との和平に応じるつもりだった可能性が指摘されている。
1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲が起こる。
さらに4月1日には米軍が沖縄に上陸し、沖縄戦が始まった。
万策尽きた小磯は、4月5日、退陣に追いこまれたのである。
小磯内閣が対米和平、すなわち無条件降伏に動けていたならどれだけの命が救えていたのだろうか。
小磯内閣中に日本は「疎開船対馬丸撃沈」「レイテ沖海戦日本艦隊潰滅」「東南海地震(死者1000人以上)」「三河地震(死者約2000人)」「硫黄島守備隊全滅」「東京大空襲」「沖縄上陸」と、燦々たる状態に陥っている。
にもかかわらず小磯は「本土決戦即応体制の強化」など進めていたのだ。