東條英機内閣

東條英機内閣

東条英機内閣は第二次世界大戦中の内閣で、開戦に踏み切ったのも東条内閣であった。
東条は陸軍出身で主戦論者であったが故に、当時の首相として白羽の矢が立った。
開戦する為の内閣、戦争する為の内閣という側面もあったが、対米短期決着に失敗、戦況の悪化を受けても終戦に舵を切れぬまま退陣した。
東条内閣の事績をまとめる。(1941年10月18日〜1944年7月22日)

東条英機(1884-1948)の簡単あらまし

陸軍の出身で総理に、戦後にA級戦犯とされた

陸軍大学校を卒業しエリート街道を歩む。
頭脳明晰で知られ、「カミソリ東条」と呼ばれていた。
1937年、関東軍参謀長に就任した東条は、盧溝橋事件で強硬論を唱え、内モンゴルのチャハルを制圧する。
これが53歳にして初めての実戦であった。
近衛内閣での陸軍大臣を経て、総理に就任するが、戦況が悪化するなかで退陣する。
戦後、A級戦犯として東京裁判で裁かれ、死刑に処せられた。

東条内閣、開戦を見越しての発足

昭和天皇が皇族内閣による開戦を危惧

日米交渉に行きづまった第三次近衛内閣が総辞職すると、後継総理にまず名があがったのは、陸軍大将の東久邇宮稔彦だった。
しかし皇族内閣による開戦を危惧する天皇の反対もあり、代わりに急浮上したのが、近衛内閣の陸軍大臣、東条英機である。

主戦論者だったから東条に白羽の矢が立った

主戦論者だった東条に大命を降下することで、逆に陸軍を抑えられると考えた木戸幸一内大臣の推挙もあって、東条内閣は成立した。

戦争回避を賭けた最期の対米交渉

外相に対米避戦派を据え、米国との和解案を探る

東条は、天皇の意向に沿って持論を抑えこむことを決意した。
自ら内務大臣と陸軍大臣を兼任して権限を自身に集中させ、対米避戦派の東郷茂徳を外務大臣に据えて、この難題に挑んだ。

交渉しつつも、同時に開戦に向けて動く

野村吉三郎駐米大使は、条件つきで中国とフランス領インドシナから撤兵するという妥協案をアメリカに提示する。
しかし、アメリカ側は11月2日、到底、日本側がのめない要求を突き付けて来た。
このとき既にに、南雲忠一中将率いる日本海軍機動部隊は八捉島単冠湾を出て、ハワイ諸島へと向かっていた。

太平洋戦争開戦

御前会議で開戦が決議

戦争回避を指示してきた昭和天皇も「開戦やむなし」との判断に傾き、1941年12月1日の御前会議でアメリカ、イギリス、オランダとの開戦が決議された。

真珠湾攻撃、開戦

運命の日となった12月8日未明、軍令部より総理官邸に連絡が入った。
「海軍部隊ノハワイ奇襲成功セリ」
ハワイの真珠湾奇襲が成功すると、東条はラジオで国民に語りかけた。
「一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります」。
国民は勝利に酔いしれた。

長期戦は出来ないと理解していた

真珠湾攻撃の目的は、アメリカ太平洋艦隊の力を削ぐことにあった。
資源のない日本が戦争を継続するためには、南方の資源地域を手中に収め、石油などの資源を調達するしかない。

資源獲得の為、同時に東南アジア侵攻していた

そのため海軍機動部隊がハワイの太平洋艦隊の無力化をはかる一方で、陸海軍は真珠湾攻撃が始まる前にマレー半島のコタバルに上陸していた。

イギリスとも開戦

マレー作戦の目的は、マレー半島先端のイギリス領シンガポールを占領することにあった。
12月10日にはマレー沖海戦で、イギリス東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を日本海軍機が撃沈し、その日のうちに、グアム島を占領した。
その後もフィリピンのミンダナオ島、ルソン島、と次々に上陸。
25日には香港を占領した。

次々、東南アジア諸国を占領化に収めていく

そして1942年(昭和17)1月2日にマニラ、2月15日に、シンガポールを占領した。
ちなみにフィリピンで日本を迎え撃ったアメリカ極東陸軍総司令官が、ダグラス・マッカーサーである。

占領地で抗日運動、国内は戦時徴用

最初期、日本軍を歓迎する地域もありはした

こうして開戦からわずか半年で、日本は西太平洋からビルマまでの広大な地域を占領する。
現地では当初、「大東亜共栄圏」という美名に植民地支配からの解放を期待し、日本軍を歓迎したところもあった。
しかし、資源は収奪され戦争に巻き込まれていくにつれて、抗日運動が広がるところもあった。

日本本土では戦時体制が強化、国民生活が犠牲に

一方、戦線拡大にともない、国内の徴用も拡大強化され、農村や工場では労働力不足に陥る。

戦時国民統制は徐々に厳しくなっていく

また、真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込んで戦死した9人を九軍神として神格化するなど、生活の隅々まで軍国主義が浸透していく。
翼賛体制の強化や、言論・出版の制限、町内会・隣組などの指導・管理など、国民を支配・統制する総力戦体制も築かれていった。

東条内閣の岐路、ミッドウェー海戦に大敗

対米・短期決戦の道が完全に絶たれる

しかし、6月のミッドウェー海戦で日本は大敗を喫する。
4隻の主力空母とともに艦載機285機も全滅、戦死者は3000名以上に達した。
これを境に、戦局は次第に悪化に転じていく。

戦況悪化も、国民にきちんと伝えず

ミッドウェー海戦以降、日本の戦況は悪化の一途をたどるが、東条内閣はそれを国民に正確に報せる様子はなく、いわゆる「大本営発表」という虚偽の発表ばかりであった。

ガダルカナル島の惨状

悪化する戦局を決定づけたのがガダルカナル島戦だった。
ガダルカナル島は日本から5000キロも離れたソロモン諸島にあり、ミッドウェー海戦で敗れた海軍は、ここに南方攻略のための基地と飛行場を建設していた。
そこを米軍が急襲する。
日本軍は島内を点々としながら応戦するが、米軍に輸送艦を次々と爆撃され、将兵は飢えと病気に苦しむことになる。

次々と占領地を撤退、追い詰められる東条内閣

1943年(昭和18)2月1日に撤退を開始したが、日本は2万人以上の兵力を失った。
同様に、ニューギニア、アッツ島にも米軍は攻勢をかけ、補給も届かず孤立した日本軍は全滅する。
大本営はこれを「玉砕」と発表した。

国内には戦意高揚を図るプロパガンダを展開

戦局が悪化するほど、精神戦の強化が図られる。
2月23日には「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚が配布され、「鬼畜米英」への敵愾心を煽るる、この言葉が広まっていく。

生活が苦しくなる一方の国民に差し伸べる策はなし

しかし、その後、戦意発揚と反比例するように、国民生活は苦しくなっていく。
配給だけでは食生活もままならず、都市住民は買い出しで食糧を確保するようになるのである。
配給下の日本では個人間の食糧売買は禁止されており、農家は政府機関以外に作物を売ってはいけなかった。

戦争継続の施策だけはやる東条内閣

国内は労働力不足なのに戦時徴用は強化

兵力増強からくる労働力不足は深刻だったが、政府は次々と動員の為の施策は打つ。

学生は学業を中止して戦争に協力せよ

6月25日、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学生は学業を中止して軍需生産に従事することが規定された。
10月2日には、「在学徴集延期臨時特例」が出され、大量の兵員を確保するための学徒出陣が始まった。
12月24日には徴兵年齢を20歳から19歳に引き下げ、終戦にいたるまで30万人の学徒兵が出陣した。

夥しい犠牲者を出した外国人強制労働

植民地の朝鮮やアジア各地の占領地からの強制連行も続き、10月に竣工したタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設工事では、東南アジアの労働者と連合軍捕虜が投入され、労働者約18万人中7万人以上、捕虜約8万人中1万人が死亡したとされる。

東条の国内求心力に陰り

反東条の動きを弾圧、批判は許さず

日本軍の相次ぐ敗退、悪化する国民生活に、東条の求心力も陰りを見せはじめ、批判が囁かれ始める。
すると、東条は憲兵隊を動かして批判勢力を弾圧し、反東条の動きを封じこめようとした。

国際社会には日本(東条)包囲網ができる

敗戦色濃厚で、占領地からの求心力も低下

敗戦色が濃厚となっていくなかで東条内閣は、11月、占領地の協力体制強化のため、大東亜共栄圏の各国・地域の首脳を東京に集め、帝国議会議事堂で大東亜会議を開催したが、タイが共同宣言案に異を唱えるなど、日本への反発もあった。

米英中が日本に無条件降伏と植民地解放を要求

一方、1943年11月25日、連合国側のルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席はエジプトのカイロで会談をもち、日本が奪取した太平洋諸島・満州・台湾・澎湖諸島の返還、朝鮮の独立、日本の無条件降伏を合意内容とした。

各地で壊滅していく日本軍

その間、南方戦線では米軍の攻勢が続いていた。
中部太平洋のギルバート諸島のタラワとマキンの守備隊は11月に全滅した。
また、南太平洋の日本軍基地ラバウルを包囲するため、米軍はブーゲンビル島、ニューブリテン島を攻略、1944年(昭和19)に入るとラバウルは完全に孤立してしまう。
また、海軍の要衝、カロリン諸島のトラック島基地が2月17日からの2日間の空襲で壊滅した。

東条英機首相、退陣へ

やっと倒閣運動が起こる

1944年6月、マリアナ沖海戦で日本が大敗し、翌7月、サイパン島が陥落すると、倒閣の動きが目立つようになる。
内閣改造で危機を乗りきろうとする東条に対し、重臣たちは東条内閣総辞職を画策し、岸信介国務相に改造のための辞任を拒否するよう働きかけた。

天皇からの支持を失い退陣

こうした動きのなかで、天皇からの支持も失った東条は「お上のご信任に応えられなくなった以上、もうこの地位に留まれない」と語り、1944年7月18日、ついに退陣に至った。
最終的に、戦況が悪化するにつれて東条への風当たりは強くなっていった。


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