敗戦後数年で、日本は戦前の経済水準を回復、早くも「もはや戦後ではない」といわれる時代を迎えた。
そして昭和30年代、日本経済は昭和の黄金期を迎える事となる。
高度経済成長期には、日本人の生活にも大きな変化が現れた。
そのなかでも一番重要なのが、家電製品や自動車に代表される耐久消費財が、一般家庭にまで普及した点であった。
まず家電製品では、「三種の神器」と呼ばれる電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビが家庭生活に普及し、日本人の暮らしを豊かに変化させた。
とくに電気洗濯機の浸透は、家事に苦労していた主婦を大きく助ける事になった。
さらに庶民が自家用車を持つ事も可能となり、モータリゼーションの到来を告げる事になったのである。
その自家用車の代名詞として人気を集めたのが、富士重工のスバル360である。
耐久消費財が一般家庭に普及したという事は、日本人がそれらを買えるほどの経済力を持った証拠であった。
つまり、収入の増加に伴って、生活必需品以外にも、お金を支出するだけの余裕が生まれたという事だ。
高度経済成長期とは、国全体の経済成長期にあわせて、誰もが豊かになったと実感できる時代であった。
この時期の日本の経済成長を牽引した主軸産業は、自動車産業、家電産業、鉄鋼業などであった。
自動車産業や家電産業は、製品の普及に伴う市場の拡大に対応して、増産の為の大規模な設備投資を実効する事となった。
これらの設備投資は、必要な原材料の供給を拡大させることになり、鉄鋼業や石油化学産業の発展にも繋がった。
需要の増加にあわせて、原材料供給産業も大規模な設備投資を実行したからである。
まず鉄鋼業では、川崎製鉄千葉工場を先駆けとして銑鋼の一貫生産が実行され、スケールメリットが追及される様になった。
一方、石油関連産業では、昭和33年(1958)の石油コンビナート建設によって石油原料製品の国産化が実現し、企業の生産を原材料の面で大きくさせる事となった。
これらの産業の発展の陰で、戦後復興の一翼を担った石炭業はこの時期に生産量・従業者数とも、大きく減少させている。
これはオーストラリアを中心とした海外から安価な石炭の輸入が始まった為で、昭和35年に850万トンだった輸入量は、昭和50年には6000万トンにまで増加した。
このように、斜陽化した石炭業は、その後も政府の保護政策の下で生産を続けていたが、平成14年(2002)に北海道の太平洋炭鉱が閉山する事で、国内から姿を消した。
(消えゆく産業は、最終的に政府から見捨てられるわけである)
原材料面における石炭から石油への転換は、原材料を輸入に頼り、代わりに製品を輸出する加工貿易が、重化学工業において進展した事を意味していた。
高度経済成長を表す言葉として、池田勇人内閣が昭和35年に掲げた政策「国民所得倍増計画」があった。
この政策が立てられた背景には、それ以前の政策で目標とした経済成長率を、大きく達成できた事がある。
そこでこの計画では、日本経済のさらなる成長や生活水準の向上、そして労働者の完全雇用が、新たなに目標とされる事となった。
なかでも重要視されたのは社会資本の充実、産業の高度化、貿易と国際経済協力の推進、人的能力の向上と科学技術の振興であった。
また、生活水準の向上については、当時問題となっていた所得上の格差の是正と社会的安定の確保という、社会政策的な側面も盛り込まれていた。