武田四天王

武田四天王、信繁の死後に信玄を支えた

武田信玄の弟・信繁が死去した後、信玄を支えた四人が馬場信春、山縣(山県)昌景、内藤昌豊、高坂昌信らであり、彼らは武田四天王と呼ばれた。
信玄時代からの重臣で、信玄によく尽くしたが、馬場手・山県・内藤の3人は信玄没後の勝頼時代に長篠・設楽ヶ原の戦いで討死してしまった。
『甲陽軍鑑』は高坂昌信の発案で編纂されたという。

四天王 一覧目次

信玄の家臣育成は「帝王学」とまで称される

適材適所、によって優れた人材を抜擢

信玄の家臣団育成・制御・操作を「帝王学」とまで呼ぶ研究者もいる。その帝王学を示す多くは『甲陽軍鑑」にある。
その信玄語録の中で有名なのは「合戦は七分の勝ちが一番良い」であろう。これは「完勝(100%の勝利)はその後、軍団・武将に驕りが生じるから」ということである。
トップリーダーとしての言葉には他にも「人をば使わず、ワザをば使う」がある。これは「家臣を使うのに、その人間の持つ能力を最大限に発揮させる」ということである。適材適所、ということだ。

とくに優れ抜擢されたのが「武田四天王」

こうした数々の人材育成法によって成長し、軍団を支える人材の中でも「武田四天王」と呼ばれたのが馬場信春(信房)・山縣昌景(山県)・内藤昌豊(昌秀)・高坂昌信(春日虎綱)である。
いずれも譜代という存在ではなく抜擢された武将たちであり、それだけに信玄への忠誠心は強く、武勇・知謀に富んでいた。
そのうえ、4人はそれぞれ異なった才能・才覚の持ち主であり、軍団では「風林火山」に喩えることもできる。

馬場信春、最期は勝頼を守って討死

武川衆(甲斐源氏の庶流)の出身

「風」の武将・馬場信春は、永正11年(1514)生まれ。信玄より7歳年長である。
隣国・諏訪との境界を守る武川衆(甲斐源氏の庶流)の出身で旧名を教来石民部景政といったが、信玄は跡目が絶えていた名門「馬場」の家名を継がせた。
信春は120騎の侍大将であり「一国の国主に相応しい器量人」との評価もある。
正しいことであれば、信玄に対しても正面からモノを言う硬骨漢としての一面も持った。
性格は冷静沈着であり、信玄も信春の行動や言葉に何度か救われている。

「不死身の馬場」と謳われたが、長篠合戦で討死

2回の合戦を通じてかすり傷一つなく「不死身の馬場」と謳われた。
天正3年(1575)の設楽ヶ原(長篠)合戦では、織田軍の佐久間信盛隊を柵の内側にまで追い込んだが、味方の不利を悟り勝頼を安全圏にまで誘導してから殿軍を引き受けて最後まで奮戦。勇将らしく華々しい討ち死にを遂げた。

内藤昌豊、最期は長篠合戦で討死

父の代で追放されていたが、信玄によって戻された

「林」の武将ともいえる内藤昌豊は大永2年(1522)、武田の将・工藤虎豊の子として生まれた。信玄より1歳年少である。
父・虎豊が信虎の怒りを買って殺され昌豊も国外に逃げていたが、信玄の時代になって呼び戻された。

戦と領国経営で功績をあげる

その後いくつかの合戦で手柄を立てたことから、永禄9年(1566)信玄の命令によって甲斐の名門「内藤」を継承することになった。
信玄は昌豊の領国経営の手腕を買って、昌豊に西上野七郡の支配を任せたほどであった。

徳川本陣に討ち掛かり、奮闘のすえ討死

昌豊は外交手腕にも長じ、信玄の名代で和睦や他国との盟約にも全権を任されている。
だが、昌豊も設楽ヶ原合戦で総崩れになった味方の残兵をまとめて徳川本陣に討ち掛かり、奮闘の末に闘死した。

山縣昌景、三方ヶ原で徳川を圧倒、長篠で討死

もとは「飫富(飯富)源四郎」であった

「火」の武人は山縣昌景であろう。兄・飫富(飯富)虎昌が考案した赤一色に身を固めた赤備え部隊を率いて戦い、武田最強と恐れられた。
享禄2年(1529)生まれで、飫富源四郎といったが、飯富家が「義信事件(信玄の嫡男・義信の謀叛事件)」で廃されたことから、信玄は甲斐の名門の一つである「山縣」姓を与えた。

板垣・甘利が担った「両識」を務めた

昌景は勇将として名を馳せたが、同時に軍略にも秀でた智将としての一面も併せ持った。
信玄の片腕として外交・内政などにも参画し、最も信玄の信頼が厚かった。
生前の板垣・甘利が担った「両識」にも任命されているほどである。

三方ヶ原合戦で徳川・酒井忠次を破る

信玄最後の戦いである三方ヶ原合戦では、徳川方の酒井忠次隊と真っ向からぶつかり合って撃破し、本多・大久保など徳川の精鋭部隊を次々に破った。
浜松城に命からがら逃げ戻った家康は「さても恐ろしきは山縣昌景」と嘆息したという。
後に家康が、赤備え部隊を作り井伊直政に預ける所以は、ここにある。

信玄臨終の場に呼ばれ「旗を立てよ」

信玄臨終の場に呼ばれた昌景は薄れる意識の信玄から「明日は瀬田(京へ向かう入口)に旗を立てよ」と命じられたともいう。

長篠・設楽ヶ原の戦いで討死

その最期となった設楽ヶ原合戦では、火の玉となって13回も徳川・織田軍目掛けて突撃を繰り返し、総身に受けた銃弾は7カ所といわれる。壮絶な最期を遂げている。

高坂昌信、長篠合戦には出陣せず1578年に病死

配慮ができる人だった高坂昌信

設楽ヶ原合戦には出陣していなかった高坂昌信は、海津城を守備しながらじっと戦況を見守った。何事にも動じない「山」を演じたのである。
そして、救援のために準備していた八千の将兵とともに迎え、敗戦の勝頼を煌びやかに飾り立てて甲府に送り帰した。
そうした配慮が出来るのが昌信であった。

信玄とは非常に仲が良かったといわれる

昌信は甲州・石和の大百姓・春日大隅の子として大永7年(1527)に生まれた。眉目秀麗であったという。
農民出身でありながら信玄の奥近習衆に登用され、急速に頭角を現した。一説には信玄の寵童(男色の相手)であったともいう。

謙信への抑えとして海津城を任される

後には150騎の侍大将と同心衆450騎を任されるほどの信頼を得ている。
昌信は信濃先方衆「香坂氏」の養子となり「香坂(高坂)」を名乗った。
また謙信への抑えとして築かれた海津城を任された。

『甲陽軍鑑』は昌信の発案による編纂されたという

『甲陽軍鑑』は昌信が信玄の事績を詳細に描くことで、勝頼時代の側近たちに「武田家」を存続させるための要諦を伝えたものとされる。
勝頼にも二度にわたって諫言している。天正6年(1578)病死した。


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