戦国武将の家系の結婚は基本的に政略結婚だった。婚姻政策は自国や家を守るために大切で、様々な意味合いを持っていた。
戦国時代における結婚を簡単にまとめる。
戦国時代の大名家や豪族の家の結婚とは、すなわち家と家同士の結びつきを強めるための政略結婚を意味した。
それは大名同士ばかりか、一族内での結婚や、家臣に娘を嫁がせて陣営を強化するという意味合いの婚姻もあった。
斎藤道三が娘の濃姫を織田信長に嫁がせた例などは、敵対関係にあった両家の関係修復、友好国であればより堅固な結びつきに利用された。 また道三は土岐家の有力者に娘を嫁がせることで家中の権力を掌握していったとされる。
姫は、実子はもちろん、身内などから養女として迎え嫁がせた例も多かった。
姫のお相手の男性であるが、【有能な家臣】【友好国の若君】【敵対する大名】などのパターンが主だった 優秀な者を大名の一門に迎えることで、結びつきをより強固にしたり。良好な関係でも裏切りがないとは言い切れない為に姫をスパイ代わりに嫁がせたり。関係が悪い、悪化した勢力との関係改善を望んで姻戚関係になったり。
基本的に打算ばかりで、現代人の感覚からすると幸せには見えない結婚だった。が、多くの場合は、子供ができてからは普通の幸せを掴めることが多かったようだ。
羽柴(豊臣)秀吉は徳川家康を臣従させるため、妹の朝日姫をもとの夫から離縁させて家康に輿入れさせ、さらには朝日姫を訪ねる名目で生母の大政所も家康のもとに人質として送った。
実の母を人質に出す秀吉に根負けした家康は秀吉に臣従する。(家康が秀吉に臣従)
天文9年(1540)頃、北条氏綱は北関東進出を狙い、古河公方・足利高基に政略結婚を持ちかけた。 高基の子・晴氏に娘(芳春院殿:ほうしゅんいん)を嫁がせようとしたのだ。
身分の上では足利晴氏は高位にあたるため、氏綱は足利家の宿老・簗田氏(なだ)に対し起請文(きしょうもん:誓約書)を発給するなど、相当な気遣いをしている。
だが翌年、氏綱は他界。息子の北条氏康も晴氏に対し、起請文を出している。
だがその後、晴氏は氏康と敵対し、河越夜戦で敗れて捕らわれた。(その後も晴氏は苦境の立たされ続ける)
婚姻同盟は移り変りの激しい乱世において、国や家を守るために必ずしも絶対的なものではなかった。
また、北条氏綱の弟・幻庵(げんあん)は、甥である氏康の娘(鶴松院:かくしょういん)が世田谷城主の吉良氏朝に嫁ぐさい、一通の覚書『幻庵おぼえ書』を与えている。
この娘はもともと幻庵の娘で、氏康の養女に入ってから吉良家へ嫁ぐこととなったともいわれる。
幻庵はそんな彼女がよほど心配だったのか、夫や姑の呼び方、婚礼の式や家臣への心配りなどを事細かに諭している。
諸人への対応の仕方、年中行事や日常生活の嗜みなども記されるなど、この覚書は、関東の武士の家庭生活の様子を示す貴重な史料と評価されている。
上記の鶴松院の話のように正室は、ほとんどが政略結婚であった。
ただ、それに対して側室は好みの女性を選んで迎え入れることができた。
よって町人や百姓など身分は低いながら大名の寵愛を受けることもあり、子宝に恵まれた側室も数多い。
ただし、長男や次男三男であっても、母親の出自や、正室か側室によって状況は変わった。
正室の長男が理想の後継者だが、江戸時代以降のように重視はされず、庶子または親族の子を養子にして世継ぎとすることも珍しくなかった。