戦国武将の婚姻政策

戦国武将の婚姻政策

目次

常に政治的意味があった大名家の結婚

戦国武将の家系の結婚は基本的に政略結婚だった。婚姻政策は自国や家を守るために大切で、様々な意味合いを持っていた。
戦国時代における結婚を簡単にまとめる。

戦国武将の家の結婚は【基本的に政略結婚】

戦国時代の大名家や豪族の家の結婚とは、すなわち家と家同士の結びつきを強めるための政略結婚を意味した。
それは大名同士ばかりか、一族内での結婚や、家臣に娘を嫁がせて陣営を強化するという意味合いの婚姻もあった。

政略婚の目的やパターン

敵対関係の修復、友好関係の強化、など

斎藤道三が娘の濃姫を織田信長に嫁がせた例などは、敵対関係にあった両家の関係修復、友好国であればより堅固な結びつきに利用された。 また道三は土岐家の有力者に娘を嫁がせることで家中の権力を掌握していったとされる。

姫は実子も養女もある

姫は、実子はもちろん、身内などから養女として迎え嫁がせた例も多かった。

お相手の男性のパターンとは

姫のお相手の男性であるが、【有能な家臣】【友好国の若君】【敵対する大名】などのパターンが主だった 優秀な者を大名の一門に迎えることで、結びつきをより強固にしたり。良好な関係でも裏切りがないとは言い切れない為に姫をスパイ代わりに嫁がせたり。関係が悪い、悪化した勢力との関係改善を望んで姻戚関係になったり。

打算による結婚が99.9%

基本的に打算ばかりで、現代人の感覚からすると幸せには見えない結婚だった。が、多くの場合は、子供ができてからは普通の幸せを掴めることが多かったようだ。

秀吉と家康の場合

母と妹を送り込んだ秀吉

羽柴(豊臣)秀吉は徳川家康を臣従させるため、妹の朝日姫をもとの夫から離縁させて家康に輿入れさせ、さらには朝日姫を訪ねる名目で生母の大政所も家康のもとに人質として送った。
実の母を人質に出す秀吉に根負けした家康は秀吉に臣従する。(家康が秀吉に臣従)

後北条氏の場合〜足利晴氏と芳春院殿

北条氏綱が古河公方・足利氏に娘を嫁がせる

天文9年(1540)頃、北条氏綱は北関東進出を狙い、古河公方・足利高基に政略結婚を持ちかけた。 高基の子・晴氏に娘(芳春院殿:ほうしゅんいん)を嫁がせようとしたのだ。

足利氏の方が高位の為、北条氏は気遣いが必要となる

身分の上では足利晴氏は高位にあたるため、氏綱は足利家の宿老・簗田氏(なだ)に対し起請文(きしょうもん:誓約書)を発給するなど、相当な気遣いをしている。
だが翌年、氏綱は他界。息子の北条氏康も晴氏に対し、起請文を出している。

北条と足利晴氏が戦になり、北条が勝利

だがその後、晴氏は氏康と敵対し、河越夜戦で敗れて捕らわれた。(その後も晴氏は苦境の立たされ続ける)
婚姻同盟は移り変りの激しい乱世において、国や家を守るために必ずしも絶対的なものではなかった。

嫁ぐ娘の心配もされてはいた

嫁ぎ先でも振る舞いを細かに指示しておく

また、北条氏綱の弟・幻庵(げんあん)は、甥である氏康の娘(鶴松院:かくしょういん)が世田谷城主の吉良氏朝に嫁ぐさい、一通の覚書『幻庵おぼえ書』を与えている。
この娘はもともと幻庵の娘で、氏康の養女に入ってから吉良家へ嫁ぐこととなったともいわれる。 幻庵はそんな彼女がよほど心配だったのか、夫や姑の呼び方、婚礼の式や家臣への心配りなどを事細かに諭している。
諸人への対応の仕方、年中行事や日常生活の嗜みなども記されるなど、この覚書は、関東の武士の家庭生活の様子を示す貴重な史料と評価されている。

側室は恋愛的に結ばれた関係が多かった

上記の鶴松院の話のように正室は、ほとんどが政略結婚であった。
ただ、それに対して側室は好みの女性を選んで迎え入れることができた。
よって町人や百姓など身分は低いながら大名の寵愛を受けることもあり、子宝に恵まれた側室も数多い。

恋愛結婚もあり〜東北の津軽為信

東北の武将・津軽為信は、当時としては珍しく、その正室・阿保良(おうら:戌姫)と恋愛結婚だったと伝わる。
もっとも、為信は最初から大名だったわけではない。
大浦城の城主・大浦為則の庇護を受ける身に過ぎず、阿保良はその為則の娘であった。
二人は恋仲になり、永禄10年(1567)に結婚。翌月に義父が没し、かくして為信は大浦氏を継いで大浦城主となった。
その後、為信は南部氏を倒して津軽を統一するが、その陰には阿保良による内助の功があったのではといわれる。

大名の跡継ぎ候補の条件

跡継ぎ候補

長男
正室の長男であれば、大名の後継者である嫡男として重んじられ、大切に養育された
次男・三男
長男が病気や戦で没した、力が足りないと判断された、などの理由で次男・三男が嫡男になることもあった

ただし、長男や次男三男であっても、母親の出自や、正室か側室によって状況は変わった。

候補にはなれない

四男以下
正室の子でも四男以下は家を継ぐ見込みはなく、嫡男の補佐役あるいは他家の養子になることも多かった
娘は大名の後継者にはなれなかった。しかし、娘が多ければ政略結婚に利用された。12〜13歳で十分に適齢期と考えられた

正室の長男が理想の後継者だが、江戸時代以降のように重視はされず、庶子または親族の子を養子にして世継ぎとすることも珍しくなかった。


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