勝頼と家臣団が三分し対立

信玄亡き後、勝頼と家臣団が三分し対立

武田信玄は京都を目指し西上、徳川家康の軍を破るも直後に急死してしまう。
信玄は子・勝頼に遺言を遺すが、信玄が遺した遺言は勝頼にとっては非常に厳しいモノであった。
のちに勝頼は信玄の遺言を破る。家臣団とは対立し、武田家は三分してしまう。
信玄の見積もりが甘かったといえる。

目次

信玄の西上作戦と急死

小田原・北条の援軍に、標的は徳川・浜松城

元亀三年(1572年)十月、信玄は総勢2万5千で西上の軍を発進した。
目指すは京都であり、天下の秩序を回復することであった。軍団には、再び同盟が成った小田原・北条氏政からの援軍2千もいた。
先発の山縣昌景隊は信州から遠江の国境に向かい、浜松城を窺い、信玄本隊は山縣隊を追うように信州に入り飯田から秋葉街道・天竜川・青崩峠から犬居城を目指した。
浜松までの間にある敵方の城を落として、浜松城を山縣隊と挟み打ちにする策であった。

なんなく徳川の支城を攻略した信玄

犬居城で休息した信玄は、ここで本隊を二つに分けた。
一方は馬場信春が指して只来城に向かい、これを落としてから二俣城に向かった。
信玄本隊は、天方城・飯田城・向笠城・各輪城を難なく落城させると、浜松城に向かった。

三方ヶ原の戦いで徳川が敗北

元亀三年(1572年)12月、三方ヶ原合戦がおこる。
信玄に誘き出された徳川家康織田信長の援軍3千を含めた1万1千を率いて合戦に及んだ。
だが完敗、家康は命からがら浜松城に逃げ延びた。
この合戦は改めて武田軍団の強さを天下に示したものであった。

直後、信玄が病没する

翌年1月には三河・野田城を落としたが、信玄の病状が悪化した。これによって武田軍団はこれ以上前進できず、甲斐に戻ることになった。
その途中、信州伊那の駒場で信玄は没した。病気は胃癌なではないかとされる。

信玄の遺言は勝頼には極めて厳しいモノであった

勝頼は早めに家督を譲るように、とされた

臨終に当たって信玄は遺言を残していた。「3年間喪を秘せ(自分の死を秘密にせよ)」というのが、一番有名だ。 しかし、それ以外のモノが問題であった。
「武田家当主は勝頼と信長の養女(姪)との間に生まれた信勝(当時7歳)として、勝頼は信勝が元服するまでの間、陣代(後見人・代理人)として補佐するように」などと遺言したという。
つまり、勝頼は信玄の孫が育つまでの中継ぎに過ぎなかったということだ。

重要な旗を勝頼が使用してはならない

まだ他にも厳しい遺言がある。
出陣に当たって諏訪法性の兜は使用してもよいが、孫子の旗や武田家重代の御旗(日章旗)などは使用させない、というものである。勝頼には、無理難題の言い遺しであった。
(ただ、この遺言については『甲陽軍鑑』のみに記され、信憑性の高い史料には残されていない。)

諏訪法性の兜とは

諏訪明神への信仰が篤かった信玄。その所用する諏訪法性の兜のみ勝頼に許されたが、諏訪家の血を引く出自に由来するもので、権威の継承を家臣に示すものとはならなかった。
一般的に武田信玄が被っているとされる諏訪法性の兜であるが、実際に信玄が被っていたのかは定かではない。
大河ドラマ「どうする家康」では信玄と勝頼の親子が揃ってこの兜を被るという演出が取られ、視聴者を驚かせた。

信玄の算段は失敗、武田家はまとまらず

諏訪家の人間であった勝頼は政権基盤が弱かった

『甲陽軍鑑』が信憑性とぼしき史料だとはいえ、勝頼が武田家の家督を継ぐ者ではなく後見人という扱いで書かれているのは、信玄没後の勝頼の立場(政治的基盤の脆弱さ)を示したものともいえる。
つまり勝頼では武田家臣団・軍団を率いるには力量不足であり、孫の信勝が元服して当主となるまで宿老・重臣などの助言を受けながらの合議制に戻り家臣団を維持させ、武田家の存続を最優先させるという信玄の考えであった。
この時点で信勝は7歳。元服までまだ7、8年はあった。
この間を勝頼が単なる後見人でいられる筈もなかった。

勝頼は遺言をやぶり後継者として振舞う

勝頼は、「3年間喪を秘せ(自分の死を秘密にせよ)」という遺言に従わず、信玄の死後1年もしないうちに後継者として振る舞うようになった。
天正二年(1574年)になると織田・徳川との対決を掲げ、各地に進出した。

武田家というより【諏訪家】だった勝頼

信玄の嫡流は次々と早世してしまい、勝頼が残った

勝頼は、天文十五年(1546年)、信玄によって成敗された諏訪頼重の娘・諏訪御寮人を母に、信玄の四男として誕生した。
諏訪氏の名跡を継承し、17歳で信州・高遠城主に任じられた。
「諏訪勝頼」とも「伊那勝頼」ともいわれるのはこのためである。
信玄の嫡男・義信が謀叛事件などで死亡したことから(次兄は盲目であり三兄は早世)、勝頼が後継者と目されるようになった。

名字を変えた者は、本家の家督は継げない

だが、この時代の不文律で、一度他家に行き名字を変えた者は、一家一門であっても本家の家督は継げない、とされていた。
信玄は、この辺りを念頭に置いて「勝頼は陣代」とした可能性もある。

勝頼が専制的になってしまう

家臣も「勝頼は甲斐源氏の後継者ではない」という

勝頼は甲斐源氏の後継者ではない、という意識は穴山など一門衆にも強くあった。
これが信玄没後に武田家が分裂する一因にもなった。

諏訪の勢力が武田家内で台頭

勝頼が信玄の遺言に反して後継者として立つと、勝頼の背後にいた諏訪衆が表面に出るようになった。
加えて跡部勝資(大炊助)・長坂光堅(長閑斎)が勝頼の側近として頭角を現した。
勝頼自身もこうした側近政治に走った。
二人は信玄時代からの重臣・宿老の立場を凌ぐようになる。
勝頼政権は、開始直後から「一門衆(親戚)」「信玄譜代の武将たち(宿老)」「諏訪衆」「側近集団」というように四分五裂した感があった。

「戦」によって勝頼の命運が決まる

信玄の後継者として、強く在ろうとした勝頼

それでも勝頼は強い総大将であり続けようとした。
実際に、東美濃・明智城や遠江・高天神城などを落としている。
これらによって、勝頼は自信を持った。

宿老・重臣らは勝頼の行いを危惧

しかし、宿老・重臣たちに危惧はあった。
内藤昌豊は「無理な合戦は武田家を「滅ぼす」と忠告し、高坂昌信は一度は「織田・徳川と和睦して関東の盟主を目指すように」、二度目は「上杉と結んで甲斐・信濃を死守するように」と諫言したが、聞き入れられなかった。

長篠で大敗、重臣の多くが討死、武田の凋落が始まる

そして天正三年、勝頼は織田・徳川連合軍と雌雄を決するために長篠合戦(設楽ヶ原合戦)に出陣する。
鉄砲の三段撃ちや武田騎馬軍団の突撃は、現在で架空とされているが、山縣・内藤・真田信綱・原昌胤・土屋昌続など信玄以来の有力武将が多数討ち死にしている。
ここから武田家臣団の凋落が始まるのである。


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