孝謙上皇(称徳天皇)はさまざま政敵を滅ぼしお気に入りの僧・道鏡を天皇に即位させようと画策する。
聖武天皇と橘諸兄の没後、孝謙上皇と淳仁天皇の治世となる。 光明皇太后により重用された藤原仲麻呂が台頭するも、皇太后死後に仲麻呂と孝謙上皇の関係が悪化、次に道鏡が台頭した。 光明皇太后と孝謙上皇はともに女性であり、この時代の政治は女性が動かしていたともいえる。 さらに孝謙上皇は重祚して称徳天皇として再び即位、お気に入りの道鏡を天皇に即位させようと画策して失敗した。
天平勝宝8年(756)、聖武上皇が崩御。翌年には橘諸兄も世を去った。
代わって政治の中心を占めたのが藤原仲麻呂で、天然痘に倒れた藤原武智麻呂の次男だ。
秀才で知られ、諸兄の在世中から、少しずつ政界で地歩を固めていた。仲麻呂を引き立てていたのは、光明皇太后だ。
仲麻呂は、自宅で面倒を見ていた大炊王(後の47代淳仁天皇)を皇太子にした。
大炊王は、早世した仲麻呂の長男の未亡人・粟田諸姉の再婚相手だった。もちろん、大炊王を皇太子にしたのは、天皇の外戚になるための布石である。
藤原氏の復権を恐れた諸兄の息子・橘奈良麻呂は、仲麻呂を滅ぼして大炊王を廃太子としようとしたが、計画は露見して失敗。
奈良麻呂一派は政界を追われ、かえって仲麻呂の権力を強化することになった。
天平宝字2年(758)、孝謙天皇が大炊王に譲位し淳仁天皇として即位、孝謙は上皇となった。
仲麻呂は大納言から右大臣に昇進。太政大臣、左大臣は空席だったので、政府のトップに上りつめた。
孝謙上皇はさらに、仲麻呂に恵美押勝の名を与えた。恵美とは広く恵みを施す美徳のことで、押勝とは暴力を禁じて乱を鎮めるという意味だ。
さらに広大な土地を与えたうえ、鋳銭や出挙(高い利子で稲の種子を貸すこと)を行うことを許した。
仲麻呂は政治を私物化する権利まで得たのである。
その絶大な権力を背景に、中国文明の崇拝者だった仲麻呂は、唐風官名を採用。
そのほか、東北支配の拡大、新羅侵攻の準備など、自分の政策を進めていった。
天平宝字4年(760)1月には奈良時代で初めての太政大臣となっている。太政大臣は則闕の官。適格者がいなければ空席になる。実際、高市皇子以来、実に70年ぶりの任命だった。
しかし、同年の6月、後ろ盾だった光明皇太后が薨去。
『続日本紀』は皇太后について、信仰の篤さと庶民への慈悲の心を称賛している。
光明皇太后が崩御しても、仲麻呂の権勢に陰りはないように見えた。
しかし、仲麻呂と孝謙上皇の関係には、少しずつひびが入っていった。
政策面では対新羅政策だ。
新羅の態度に無礼があったとして軍事侵攻を計画した仲麻呂に、孝謙上皇は反対した。
また、天平宝字5年(761)、上皇が病気になると、道鏡という僧侶が看病した。
それ以来、上皇は道鏡への信頼を高めていった。
この時代、医学は未発達であり、病気の治療はもっぱら看病禅師と呼ばれる僧侶の仕事だった。
唐の高僧・鑑真も薬草に詳しく、看病禅師として高く評価されていたのである。
しかし、薬草の効用には限界があり、看病禅師に期待されたのは、結局は祈祷だった。
僧の玄ムが橘諸兄に重用されたのも、藤原宮子の病気を祈祷で治したのがきっかけだ。
難病を治すほどの祈祷の力を持った僧は、当時の社会において大きなカリスマ性を発揮していたのだ。
この年、平城京改築のため、一時的に遷都され、半年ほどで都は平城京に戻っている。
しかし、その間に孝謙上皇と淳仁天皇の関係が悪化する。
天平宝字6年(762)5月23日の『続日本紀』には、「高野天皇(孝謙のこと)と淳仁の間にすき間ができた」とある。
淳仁天皇は内裏に戻るが、孝謙上皇は法華寺に入ってしまったのである。
法華寺は尼寺で、男性の官人は中に入りにくい。
上皇は官人に邪魔されることなく、側近を通じて勅令を出すようになった。
6月3日、天皇と上皇の関係は決定的な事態を迎える。それはいわば、孝謙上皇によるクーデターであった。
上皇は、淳仁天皇の排除を決意したのだ。
『続日本紀』によれば、その日、五位以上の官人が朝堂に集められ、淳仁天皇が孝謙上皇の言葉を告げた。
「淳仁天皇は藤原仲麻呂の口車に乗って次第に自分(孝謙上皇)を軽んじ、言ってはならないことを言うようになった。これも自分が至らぬゆえだから出家する。さらに、今後は淳仁天皇には政務の細かいことのみを任せ、大事なことは自分が決定する」という内容である。
淳仁天皇は自分の権限を小さくするという詔を、自らの口で言わされたのである。
なぜ淳仁天皇は自分の権限を小さくする詔をわざわざ自らの口で発したのか。もちろん孝謙上皇の命令での発言と思われるが、通常であれば拒否するところだ。
命令を拒絶できなかったのは、淳仁の天皇としての権威が低かったからだろう。
彼は皇族でも傍流の出身だった。だから即位したときも、通例の代替わりに伴う改元が行われなかった。
また『続日本紀』には、彼の妃についての記述が何もない。
そんな権威の低い天皇の後ろ盾が藤原仲麻呂だったわけだが、その仲麻呂の後ろ盾だった光明皇太后が崩御したことで事態は一変した。
多くの貴族たちは先のなさそうな「淳仁と仲麻呂」の政権を見捨てたことだろう。
そんな情勢下では、淳仁天皇としては、ひたすら孝謙上皇のご機嫌を取るのが、唯一の処世術だったのである。
しかし、孝謙上皇には、淳仁天皇を容赦する気は毛頭なかった。
孝謙上皇と淳仁天皇の関係が、何故この時期にここまで悪くなったのかについては、『続日本紀』には何も書かれていない。
しかし、ヒントはある。「言ってはならないことを言った」という一文だ。
一般にはこれは、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡の関係を批判したのではないか、と考えられている。
天皇になろうとした道鏡と、それを望んだ称徳(孝謙)上皇。しかし、その計画は、反感を持った貴族によって失敗する。
淳仁天皇は事実上、失脚したが、藤原仲麻呂に咎めはなかった。
しかし、その政治力は低下しており、仲麻呂派の官人は、少しずつその地位を奪われるようになっていた。
天平宝字8年(764)9月2日、仲麻呂は孝謙上皇に申し出て、「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」という官職に任じられた。
近畿の軍事を統率するのが任務だ。
クーデターを起こす際に必要なのは都周辺の軍事力を掌握することである。
仲麻呂の官職は、クーデターに必要な武力を手に入れたことになるのだ。
さらに仲麻呂は淳仁天皇の兄弟と手を組み孝謙排除の計画を進めた。
孝謙上皇側もその動きを察知していた。
11日の『続日本紀』には、「恵美押勝(仲麻呂)の謀反がもれた」とある。
孝謙上皇の動きは素早かった。
まず諸国に命令を伝えるのに必要な駅鈴と御璽を奪った。
地方豪族を糾合できなくなった仲麻呂は近江国を拠点にしようとしたが、追討軍に阻まれ、船での脱出にも失敗。
18日に一族ともども処刑された。(藤原仲麻呂の乱)
18日の『続日本紀』には、「押勝は孝謙と道鏡の関係のよさに不安になり、乱を起こした」とある。
仲麻呂はいずれ自分は粛清されると考えており、その予防策として乱を起こしたのだ。
当時、僧尼を管理する職に就いていた道鏡は、すでに政局に影響を与えていた。
淳仁天皇は乱には加わっていなかった。
しかし、10月9日、孝謙上皇は、仲麻呂との共謀を理由に淳仁を親王の位に戻し、淡路に流した。
諡号もなく、『続日本紀』などの古文書では、「廃帝」や「淡路廃帝」などと記す。
淳仁天皇の存在そのものが、黒歴史にされてしまったのだ。
「淳仁」という諡号は、明治時代になってから贈られたものである。
淳仁廃位の日、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となった。
称徳は出家していたので、史上唯一、尼僧で即位した天皇となった。
即位した称徳が進めたのは、皇子の粛清だった。
多くの皇子が反乱を計画したとされ、配流または処刑となり、天武天皇の血を引く親王はいなくなった。
天平神護元年(765)3月5日、称徳天皇は「現在、皇太子にふさわしい人間はいない、淡路から連れて来ればいいなどという意見はもってのほか」と発言している。
淡路にいるのは、もちろん淳仁廃帝を意味する。
当時、実際に淳仁廃帝を復させようという動きがあったようだが、これが淳仁には致命的となった。
同年10月、淳仁は淡路で死亡。暗殺説が定説になっている。
こうして天皇に即位する資格のある人間が、ほとんどいなくなった。
称徳天皇に皇子はなく、高齢のため、男子が生まれる可能性もない。
それにもかかわらず皇子たちを亡き者にしたのは、誰か意中の人物がいたのではないか。
そこで浮上するのが、寵愛する道鏡の存在だ。
淳仁廃帝の死の10日後、称徳天皇は道鏡を「太政大臣禅師」とした。「禅師」なのは道鏡は僧のためだ。
このとき称徳は、「天皇が出家なのだから、大臣も出家であるべき」と述べている。
翌天平神護2年(766)10月に、道鏡は法王となる。道鏡の身内も、朝廷の要職につくようになった。
藤原氏は反感を抱いただろうし神事に僧が参加することを危惧する人間もいただろう。
しかし、大量粛清後、称徳天皇を止められる者はすでに存在しなかった。
そんな称徳天皇の真の望みは、道鏡に譲位することである。
ただ、皇族でもない道鏡を天皇にするのは、容易ではなかった。
道鏡は皇族の出身という噂もあったが、信じる者はほとんどいなかった。その噂自体も誰が流したのか怪しい話である。
物部氏の末裔というのが、道鏡の出自についての定説になっている。血統面では完全にアウトだ。
道鏡を即位させるには、史上類を見ないほどの離れ業が必要だった。
神護景雲3年(769)9月25日の『続日本紀』には、ある事件の顛末が記録されている。世に有名な「宇佐八幡宮神託事件」である。そのあらましは次の通りだ。
この事件は、称徳天皇と道鏡が、道鏡の即位を意図して仕組んだものだという説が有力だ。
神の言葉を名目に即位しようという離れ業だ。
天皇は清麻呂が道鏡即位を認める神託を持ち帰ると期待したのだろうが、清麻呂に裏切られたのだ。
それだけ貴族たちの間で、道鏡への反感が大きかったのである。
こうして道鏡の即位という称徳天つい皇の望みは潰え、翌年に崩御。
後ろ盾を失った道鏡は、下野国の薬師寺に左遷された(翌4年(770)死去)。
称徳天皇の次は49代光仁天皇が即位した。光仁は志貴皇子の子で、志貴皇子は天智天皇第7皇子であった。
称徳天皇がここまで熱心に道鏡の即位を願った動機については、天智天皇系の皇子に皇統が移動するのを防ぐため(称徳は天武系)とも、たんに称徳の恋愛感情の結果ともいわれる。
あるいは、称徳は道鏡を使って、権力が藤原氏に移るのを阻止しようとしたのかもしれない。奈良時代の政争の基本は、皇親勢力と藤原氏の権力の奪い合いだったからだ。
いずれにしても真相は不明であり、今後も不明のままなのだろう。