明応の政変

明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件
この政変により、将軍は足利義稙(よしたね:10代)から足利義澄(よしずみ:11代)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。
近年、戦国時代の始まりをこの事件からとする見方が強い。。

明応の政変で戦国時代へ突入

重臣によるクーデターでいよいよ日本は戦国時代へ突入する。
応仁の乱で虫の息となっていた将軍の権力を止めを刺したのが、「明応の政変」である。

応仁の乱の混乱に乗じて、細川政元が幕府権力を奪う

応仁の乱は、西軍の山名宗全が義尚(よしひさ:義政の子)を、東軍の細川勝元が義視(よしみ:義政の弟)を担いで始まった。
しかし、その後、東軍の細川勝元が義尚を担ごうと画策した事や、日野富子らによって暗殺され掛かった事に強い危機感を覚えた義視比叡山に出奔し、山名宗全率いる西軍の盟主に担がれる事になった。
乱の最中に両軍の盟主が交代するという事態が出来したのである。
応仁の乱は、次第に義視を盟主とする西軍が劣勢のまま収束していく事になる。
しかし、9代将軍に就任していた東軍の盟主・義尚は、権力強化を図って公家領・寺社領を横領した守護大名・六角高頼(ろっかくたかより)の討伐に向かった先の近江で病死してしまう(享年25歳)。

明応の政変

その機に乗じて西軍の盟主・義視は、嫡子・義材(よしき:義稙)と共に上洛、日野富子の後援を受けて義材を10代将軍に就任させる事に成功する。
この決定に不満を持ったのが、足利義澄(堀江公方・足利政知の子)を擁立しようとしていた管領家の細川政元(勝元の子)だった。
政元は、義材に不満を抱くようになっていた日野富子、伊勢貞宗(いせさだむね:政所執事)らを懐柔すると、明応2年(1493年)、クーデターを決行する。

戦国武将が割拠する戦国時代の始まり

一大名を将軍を倒し、新たな将軍を立てた

京を制圧した政元は、謀略を巡らして義材勢を崩壊させ、将軍・義材を京都龍安寺に幽閉義澄を11代将軍に就任させた。
明応の政変は、守護大名の1人が現役の将軍をその座から引き摺り下ろし、自分の気に入った人物を将軍に就任させるという前代未聞の事件だった。
この事件を機に、将軍の権威は完全に失墜、幕政の主導権は細川政元によって掌握された。
この事件を持って戦国時代が始まったという見方が強い。

政元が暗殺される

これをもって、政元は幕府権力を牛耳ることに成功した。
しかし、細川家内部の権力争いに巻き込まれて、政元も暗殺されてしまう。
幕府の執権を巡る権力闘争は混迷の度合いを増していった。

「下剋上」の風潮が広まる

政元に続いて家臣の三好長慶が幕府の実権を握ったが、彼の没後は、その家臣・松永久秀に実験が移った。
このように、明応の政変以後の日本では、家臣が主君を政治的または軍事的に倒して上下関係をひっくり返す「下剋上」の風潮が広まっていった。

地方で戦国大名が台頭

近畿以外の地方でも、政治的混乱が続いていた。
地方では、守護守護代(守護の代理人)、国人(一国内を基盤とする独自の勢力を持つ在地領主)をはじめとする様々な階層に属する武士たちが、幕府の支配権を無視して独自の両国を持つようになる。
そして、彼らが「戦国大名」と呼ばれる存在になっていった。
こうして覇権への意欲があれば、身分の上下に関わりなく、誰でも天下を望む事が出来る「戦国時代」の幕が開く事となった。


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