戦国時代の始まり

戦国時代の始まり

群雄割拠、実力主義の時代

1493年、駿河の北条早雲は、隣国・伊豆の堀越に攻め込み、足利氏の所領を武力で奪った
中央では管領の細川政元がクーデーターを起こし、将軍を追放し、実権が細川氏に奪われてしまう。
室町幕府の中央政権としての力が消失してしまい、戦国時代の本格的な幕開けとなった。
>> 室町幕府の衰退年表

応仁の乱後、全国で武力衝突が相次ぐ

応仁の乱が終結した15世紀末、畿内から北国にかけて、数多くの一揆が起こり、守護大名と一揆勢力との衝突も相次いだ。
こうした中で、駿河に伊勢新九郎(後の北条早雲)が歴史の表舞台に現れる事で、一気に戦国時代が本格化していく事になる。

戦国の風雲児 北条早雲

北条早雲、室町幕府の名門・伊勢氏の出身といわれている。
応仁の乱の最中、早雲は駿河の守護大名・今川義忠(よしただ)に嫁いだ妹を頼って駿府に下った。
1476年に義忠が戦死すると、今川家に家督争いが勃発する。
早雲は妹の生んだ氏親を奉じて対立候補を討ち、その功によって興国寺城(こうこくじじょう:現在の沼津市)を与えられた。

関東の覇者 北条氏

1491年、伊豆にいた堀越公方(ほりごえくぼう)の足利政知(まさとも)が死に、その子・茶々丸が母と弟を殺害して跡を継いだ。
これを見た早雲は、1493年、兵を率いて伊豆に討ち入り、伊豆一国を平定した。早雲が62歳の時である。
1495年には、相模の実力者・大森藤頼(おおもりふじより)を攻めて小田原城を落とし、さらに1516年、鎌倉以来の名族三浦氏を滅ぼして相模全土を平定する。
伊豆、相模両国を支配し、武力で領土を拡大する戦国大名の先駆けとなった。
早雲は、興国寺城主の頃から年貢の取り立てを緩くするなど、農民の為を考えた善政を執り、周囲の人望が厚かったという。

守護大名と戦国大名の違い

戦国大名は、領国の集権化を進め、強力な支配体制を確立した点で守護大名と異なる。
また、戦国大名の中には、今川氏武田氏など守護大名から成長した者もいるが、守護の代理者である守護代や、在地の有力武士である国人(こくじん)など、低い身分から成り上がった者が多いのも特徴である。
下位の者が上位の者を凌いで伸し上がるこの現象を「下剋上」と呼ぶ。

守護大名が国人らに敗北する

北条早雲の登場後、各国で守護大名家の分裂抗争が頻発する。
1498年、丹後の守護大名一色義秀(いっしきよしひで)が国人に攻められて自害した事件をはじめとして、抗争の火は北陸から東国、中国地方へと拡大した。
伝統ある守護大名が無残に崩壊していったのは、一向一揆の圧力に屈した例もあるが、守護代による守護大名殺しが多かった。

幕府の実権は細川氏に奪われる

中央、京都でも1493年、管領の細川政元が将軍を追放するクーデターを起こす。
幕府の実権は細川氏に奪われ、これにより室町幕府は中央政権としての力を失った

室町幕府の衰退年表

西暦 出来事
1477年 応仁の乱が終結する
1489年 9代将軍 足利義尚(よしひさ)が死去
足利義視(よしみ)の子・義材(よしき)が10代将軍に就任する
1493年 明応の政変
管領・細川政元がクーデータを起こし、義材を廃して、義澄(よしずみ)を将軍に擁立
幕府は中央政権としての力を失う
1507年 細川政元が養子・澄之に討たれる
細川氏が2派に分裂し、混乱が深まる
1508年 足利義尹(義材から改名)が将軍に返り咲く
1521年 管領・細川高国が義稙(よしたね:義尹か改名)を廃して、義晴(よしはる)を将軍に擁立
1573年 15代将軍 足利義昭が織田信長に京都を追放され、室町幕府が滅亡する

↑ページTOPへ