箱館戦争(慶応4年/明治元年〜2年(1868〜69年)は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。
旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。
1868年9月、旧幕府海軍の榎本武揚らは、会津などで戦った大鳥圭介をはじめとする旧幕府陸軍や、新撰組の土方歳三などと仙台で合流。
軍艦に彼らを乗せて蝦夷地へと向かう。
当時の蝦夷地では新政府の統治機関である箱館府が置かれ、公家出身の清水谷公考が知事を務め、箱館の五稜郭を府庁としていた。
10月20日、鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は22日、攻撃を開始し、新政府軍を箱館まで後退させる。
これ以上の抵抗は無駄だと判断した公考は、25日、青森に逃れた。
26日、旧幕府軍は五稜郭を占拠する。
11月5日には、土方歳三が松前城を攻撃。
海からの攻撃を想定して海岸近くに築城された松前城は、陸側からの攻撃であっさりと落城。
12月15日、榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国が樹立された。
旧幕府勢力の蝦夷共和国樹立を新政府が見過ごす筈はなかった。
翌1869年3月、新政府は蝦夷共和国排除へと動き出し、艦隊を蝦夷に向かわせる。
旧幕府艦隊は宮古湾で迎え撃とう、新政府軍の軍艦奪取の為に接舷攻撃を試みるも失敗。
4月9日、新政府軍1500人が乙部上陸に成功する。
さらに17日、新政府軍は松前を制圧し、五稜郭のある箱館へと向かった。
箱館湾では、新政府艦隊の攻撃により旧幕府艦隊が壊滅する。
箱館湾海戦は函館戦争における海戦で、回天を旗艦とする旧幕府艦隊3隻と、甲鉄を旗艦とする春日丸ら新政府艦隊6隻が函館湾で激突した。
1869年4月24日に戦闘が開始されたが、5月7日には回天が甲鉄の砲撃を受けて戦闘不能になり座礁、旧幕府艦隊は壊滅した。
5月11日、新政府軍の総攻撃が開始されると、箱館市内はすぐに陥落、この戦いで土方歳三は戦死する。
翌12日、軍艦からの砲撃が開始され、五稜郭内には次々と砲弾が着弾した。
降伏を決意した榎本は18日に五稜郭を開城。
こうして1年半にわたる戊辰戦争は終結した。