なぜ古墳には周濠があるのか。実はその理由は良く分かっていおらず、現代でも議論が続いている。
弥生時代の環濠集落にも周濠は備えられたが、それは外敵に備えたためであり、古墳には防御は必要なかったはずだ。
中世以降は周濠は灌漑用水の水源として用いられたが、初期の古墳の濠には水は入っていなかった。
つまり、灌漑用水のための周濠ではなかったし、もとは「濠」ではなく「壕」だったのだ。
もっとも現実的な説としては、古墳築造の際に土が要るから自然と壕ができた、という説がある。
大きな墳丘を造るだけでも多大な手間がかかる巨大古墳の築造だが、さらに、墳丘の周囲に濠(溝)をめぐらせていた。
これを「周濠」といい、小さなものは単に「溝」と称されることが多い。
初期古墳には周濠がなかったが、4世紀以降の古墳で、周濠を備えた古墳が徐々に出てきた。
前方後円墳の巨大化と共に周濠の整備も進み、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)や大仙陵古墳(大阪府堺市)の時代に最盛期を迎えた。
濠の形状はさまざまで、単に墳丘の周囲を掘ったものもあれば、二重になっているものもある。
周濠の外側に「外堤」と呼ばれる土手が設けられた古墳もあり、人物や動物などの形象埴輪が配置されたものもある。
誉田御廟山古墳は内濠と内堤から内側を宮内庁が管理しており、外濠と外堤は1978年(昭和38年)に国の史跡に指定されている。
2023年(令和5年)3月には研究者による立ち入り調査が行われ、墳丘を囲む濠をボートで渡った。
大仙陵古墳は三重の周濠で囲まれているが、これは明治時代の改修工事の際に整備されたものである。
江戸時代には、最外部の濠は一部を除いて畑地になり、二重濠のような構造になっていた。
2016年(平成28年)から翌年に行われた音波探査で、墳丘部分が内濠の水中にも伸びていることが確認された。
これにより、大仙陵古墳の墳丘長が従来の486メートルよりも約40メートル長い525メートルであることがわかった。
大仙陵古墳の外堤は、内側から第1堤、第2堤と呼ばれる。
2018年(平成30年)に行われた宮内庁と堺市の共同調査では、第1堤の墳丘前方部に近い南から東側で、列状に並んだ円筒埴輪と石敷きが確認された。
また、2021年(令和3年)の第2回調査でも、後円部に近い北から東側にかけてのエリアで2列の円筒埴輪列が見つかっている。
複数箇所で発見されたことから、大仙陵古墳の第1堤には、直径30〜35センチの円筒埴輪をつなげて並べた列が1周している可能性が高い。
天皇陵を調査する機会は限られているが、今後も新たな発見が期待される。
古墳の周囲に周濠が設けられた理由は、実はよくわかっていない。
弥生時代には外敵からの侵入を防ぐために濠を備えた環濠集落が築かれたが、古墳は外敵から防御する必要がない。
そのため、「環濠集落からの流れを汲んで発展した」という説をそのままストレートに成り立たせるのは難しい。
また、かつては「周濠に貯めた水を灌漑用水として用いた」と考えられたこともあった。
しかし、濠に水を入れる習慣は、古墳時代にはほとんどなかったといわれる。
つまり、造られた当時の周濠は、厳密には「周壕」であった。
集中豪雨や台風時に水が濠内にたまることはあったが、一時的なものだったという。
古墳の濠の水が灌漑に使われ始めたのは、中世以降とされる。
広い濠を持つことで知られる行燈山古墳(奈良県天理市、崇神天皇陵)も、灌漑用水として濠が拡張されたのは江戸時代後期のこと。
江戸時代は新田開発が盛んに行われ、それに伴い古墳の濠水も灌漑用に用いられるようになった。
それでは、周濠は何のために設けられたのか。現実的に考えられるのは、「掘り上げた土を墳丘用に使う」というものだ。
大きな古墳の築造には多くの土が必要となるが、それを遠くから頻繁に運ぶのは労力がいるので、周囲の土を掘って墳丘に活用した。
ちなみに、濠を造る際にはいちいち上り下りをしなくていいよう、墳丘へ至る橋(土橋)がきちんと掘り残されていた。
排水のために土橋の一部も深く掘り下げられており、その上には板が渡されて通行できるようになっていたとみられる。
他にも、「墳丘と外界を画することで、被葬者の権威を示す狙いがあった」「古墳には亡くなった人が眠るという観点から、現世と冥界の区切りとして設けた」などの可能性がある。
単なる装飾のために掘られた可能性もあるが、結局は労力の割にはメリットが少なかったのか、古墳の縮小化に伴い周濠も衰退していった。