後醍醐天皇が隠岐を脱出して各地の武士に挙兵を促し、京都の六波羅探題に軍を向けた。
足利高氏は当初は幕府軍であったが突如として反旗を翻し、六波羅探題に刃を向ける。
高氏の裏切りにあった六波羅探題は滅亡した。
六波羅探題は承久の乱後、幕府が京都の六波羅に設置した機関。
朝廷の行動を監視するとともに、洛中警固や西国の政務や裁判権などを任務とした。
南方北方の2名からなり北条一族の中から任命された。
京都攻防戦は、1333年(正慶2年)閏2月2日に護良親王の腹心・赤松則祐の実家赤松家が、播磨国で挙兵したことに始まる。
六波羅探題は、赤松氏の挙兵を悪党蜂起と誤認し備前国守護佐々木氏に追捕を依頼したが失敗した。
悪党蜂起の鎮圧は通常業務として行う治安回復活動なので、他の領主のために本気で軍勢を動かす気になれない。
佐々木氏も仕方なく出動したため、失敗した報告でよいと考えていた。
この播磨国の合戦で幕府軍がすぐに退くのは、本気になっていないためである。
赤松氏の軍勢の進撃速度は速く、3月12日には、京都の街まで攻め込む市街戦となった。
六波羅探題はこの軍勢を山崎まで退け、赤松氏の進撃はここに頓挫した。
この前日、六波羅探題は赤松円心(則村)・則祐父子を悪党から謀反人に改めていた。
討ち取れば恩賞の出る相手と戦うことになったことで、御家人はようやく本気を出す。
3月12日の六波羅探題の軍勢は、強さが全く違っていた。
山陰地方では、閏2月24日に後醍醐上皇が隠岐を脱出して伯耆国の名和一族と大山の衆徒に保護され、反攻の拠点を築いた。
ここで、後醍醐上皇は院宣(現職は光厳天皇)を発給し、諸国の武士に挙兵を促した。
また後醍醐上皇は、千種忠顕を総大将とした軍勢を京都に向けて進発させた。
この軍勢は進路上の武士を味方に加えて膨脹を続け、京都を攻め始めた4月8日には大軍になっていた。
南から赤松、西から忠顕の軍勢が六波羅探題を攻め始めたが、悪党出身の赤松と武家を集めた忠顕では軍勢の性格が違いすぎ、かつ大軍を率いることのできる武将がいなかったことで、うまく連携できなかった。
『太平記』は、六波羅探題が合戦には勝っているが、離脱する者が続出して軍勢が減っていったと記している。
このような時期、鎌倉から北条高家(名越高家)と足利高氏(後の尊氏)を総大将とする三度目の上洛軍が派遣された。
総大将の高家は、まだまだ未熟な若者であった。
高氏は二回目の上洛で出陣し、三河国守護を務める家なので京都の情勢を把握していた。
高家には功績を上げなければならない逸る気持ちがあるが、高氏は後醍醐天皇か鎌倉幕府かで進退を迷っていた。
上洛を命じられた時、父・足利貞氏の喪中を理由に幕府からの出陣要請を断るも、強引に出兵させられたという。
こうした確執が幕府に対する不信感につながったとされる。
第三次の上洛軍が京都に入ったのは、4月16日頃である。
京都に入った高家と高氏は、援軍の到着を待ちかねた六波羅探題と連日のように軍議を繰り返す。
そして、南側に布陣す赤松の軍勢を先に叩く計画を立てた。
4月27日、高家の軍勢は計画通りに南進を始めた。
移動途中の久我畷で待ち伏せに遭い、高家が討死にし、名越の本隊は大きな損害を出して退却した。
高氏の軍勢は南進せず、丹後国の村八幡宮に移動すると、後醍醐天皇に付くことを明らかにした。
高氏がどのタイミングで後醍醐に付くと決めたかは不明である。
六波羅探題としては、最悪のタイミングでの寝返りであった。
最期の時が来たと判断した六波羅探題は、六波羅政庁を中心に防御を固める。
まだ味方として残っている近江国守護佐々木時信に退路の確保を託し、合戦の準備を始めた。
後醍醐上皇方は高氏の準備が調うのを待ち、忠顕・円心・高氏の三軍で5月7日に六波羅探題総攻撃を始めた。
京都の市街戦は両者の損耗が激しく、一日の戦いで六波羅探題の軍勢は政庁の周辺に押し込められた。
翌5月8日、六波羅探題の生き残りは、近江国を戦場にすることを許さない延暦寺の勢力圏を抜けた番場の蓮花寺(米原市)前で壊滅、六波羅探題は滅亡した。