八坂神社の歴史

八坂神社の創建と歴史

疫病を祓う、都と朝廷と人々の守り神

「祇園さん」として親しまれる八坂神社は四条通の突き当たりに鎮座し、朱色の楼門はひと際目を引く。毎年7月1日から1ヶ月にわたって行われる祇園祭は、日本三大祭りの1つに数えられる。 京都を代表する神社である八坂神社だが、一方で、神仏習合を色濃く残す祇園信仰は、時代の経過とともにさまざまな信仰が折り重なった重層的な信仰となった。主祭神に素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神を祀る

目次

創建時期には諸説あり

社伝〜656年に高麗渡来人が素戔嗚尊を祀る

八坂神社の創建は社伝によると、37代斉明天皇2年(656)に高麗から渡来した伊利之という人物が、新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊(スサノオノミコト)を八坂郷の地に祀ったのがはじまりといわれる。

遅くとも926年には建立か

また貞観18年(876)に円如が薬師堂を建立したところ、天神(祇園神)が東山の麓の祇園林に現れ、そこに建立された天神堂が前身とする由来もある。
一方、『日本紀略』には、延長4年(926)に修行僧が祇園天神堂を建立したとあり、創建時期にはいくつもの説がある。

『二十二社註式』に八坂神社創建の記述

二十二社についての解説書である『二十二社註式』では、八坂神社の創建についての記述がある。
最初、牛頭天王(ごずてんのう)は播磨国明石ノ浦(兵庫県明石市)に降臨し、兵庫県姫路市の廣峯(現在の廣峯神社)、京都市左京区の北白川東光寺(現在の岡崎神社、のちに北白川から岡崎東天王町に移転)に移ったのちに、感神院(八坂神社)に鎮座したとされる。

神仏習合が進んだ祇園社

円如による薬師堂の創建

円如による創建由来からわかる通り、早くから神仏習合が進んだ神社である。円如は奈良県の興福寺の僧侶だったため、薬師堂はその別院となった。
その後、天延2年(974)に比叡山延暦寺の別院となった。

明治までは祇園社と呼ばれた神仏習合の施設

明治時代までは祇園社と呼ばれ、祇園感神院という名称の神仏習合の施設でもあった。
社僧と呼ばれる僧侶が奉仕し、境内には薬師堂や鐘楼などがあった。

薬師如来〜薬壺を持ち、人々を病苦から救う仏

牛頭天王の本地仏(神の正体とする仏)は薬師如来とされる。薬師如来は薬壺を持った姿で、人々を病苦から救う仏である。
比叡山延暦寺の本尊も薬師如来となっている。

朝廷から稲の支給や僧の派遣を受ける

また八坂郷にはもともと観慶寺があった。観慶寺は、官大寺や国分寺、国分尼寺に次ぐ、定額寺とされた。定額寺とは、朝廷から稲などの支給や官僧(定額僧)の派遣を受けた寺院である。この観慶寺は祇園社の一部となり、観慶寺薬師堂となった。

平安時代、二十二社の【下八社】のひとつに

平安時代には、国家の重大事において祭祀が行われる二十二社のうち下八社のひとつとなっている。

ときの権力者らも篤く崇敬

藤原氏、藤原道長も参拝

宮中で権勢を誇った藤原氏が八坂神社を信仰し、元慶元年(877)には、藤原基経が自らの邸宅を寄進して、精舎としたと伝わる。
藤原氏全盛時代の中心人物である藤原道長もたびたび参拝した。

後三条の以降、天皇・上皇がたびたび参拝

延久4年(1072)に71代後三条天皇が参拝して以来、天皇、上皇による参拝がたびたび行われている。

豊臣家・徳川家ら武家も篤く信仰

豊臣秀吉が母の病気平癒を祈願して多宝塔を寄進したほか、承応3年(1654)には4代将軍徳川家綱によって本殿が再建されるなど、武家からも信仰された。

明治の神仏分離令

八坂神社へと改称される、寺としての要素を奪われる

八坂神社の信仰が大きく変わったのは、明治時代のことである。
神仏分離令によって、祇園感神院は廃され、八坂神社と改められた。

祭神が神道由来のスサノオへ変更される

また祭神もそれまでの牛頭天王とその妻子から、素戔嗚尊とその妻子となったのもこの時である。
観慶寺薬師堂は取り壊され、本尊の薬師如来立像と十一面観音立像は大蓮寺に移された。
大正時代には、官幣大社に列せられている。

牛頭天王がスサノオと同一視される

祭神の素戔嗚尊は、インドの祇園精舎を守護する牛頭天王と同一視された。
牛頭天王は頭が牛で、憤怒の形相をした防疫神として信仰される。

御霊会〜疫病を鎮める儀式

牛頭天王→薬師如来は【医薬の仏】とされる

素戔嗚に移される前の祭神・牛頭天王は、仏教における薬師如来と同一視される。
薬師如来は病気の苦しみから人々を救う仏であり、医薬の仏とされる。

京都の疫病を抑える為に八坂神社が信仰された

八坂神社が朝廷から信仰されたのは、京都において疫病が蔓延することが多くあったためである。
この疫病を鎮めるために行われた御霊会という儀式が祇園祭の起源とされる。

京都では水害が疫病を引き起こす

平安京〜人口密度が高く庶民は密集状態

わずか23.4平方キロメートルにすぎない平安京の人口は約10万人前後と推定されている。
ここから人口密度(1平方キロメートルあたりの人数)を割り出すと、4000人を超える。
ほとんどの家屋が平屋であり、縦横無尽に道がつくられていることを考えると、庶民の住環境はかなりの密集状態だったことがわかる。

洪水を起こしやすかった平安京の地形

さらに衛生状況を悪化させたのは、平安京造営にあたり、地形を無視して唐の長安を模した長方形に都市を造営したためである。
平安京造営にあたって、碁盤目状の都市とするために川の流れも南北に真っ直ぐになるように変更され、東堀川と西堀川がつくられた。
自然の川は蛇行することで川の流れが減速し、水量も抑えられているが、堀川は直線となったことで、大雨が降るとすぐに氾濫を起こしやすくなる。
京都盆地は東が高く、西が低くなっているため、特に西堀川は頻繁に洪水を起こした。

水害と密集が疫病を引き起こす

水害がたびたび起き、人々が密集する場所で発生するのが疫病である。
当時、目に見えずに広がる伝染病は、霊的な世界の仕業、すなわち怨霊や鬼の仕業と考えられた。
そこで、これらの霊を鎮める儀式が行われたのである。

悪気疫病を祓うため牛頭天王が祀られた

湿度の高い日本では、体が弱る夏に疫病が流行することが多く、悪気疫病を祓うため、人々は牛頭天王を祀った。
現在、各地で繰り広げられている夏の祭りも、もとは病気除けを願う牛頭信仰まで行き着く。

祇園祭の起源〜1000年以上遡る

869年、疫病を鎮める為に【御霊会】が始まる

貞観11年(869)に、京都で病が流行し死人が多数出た。
そこで八坂神社に祈願し、66本の矛を立て、神輿を神泉苑に送って悪疫を封じ込む御霊会を行ったところ、疫病が収まったという。
これが祇園祭のはじまりとされる。

御霊会〜怨霊を鎮める儀式

御霊会とは、非業の死を遂げた者たちの怨霊を鎮めるための儀式である。
非業の死を遂げた人々の多くは天皇や朝廷に対する謀反を図った者たち(冤罪も含む)である。
公式的には反逆者である人々の慰霊を行ったのは、これらの霊の祟りによって疫病や災害が起きると考えられたからだ。

863年に最初の御霊会、雨乞いの祈願だった

最初の御霊会が行われたのは、貞観5年(863)のこと。旱魃が続いたことで、空海が神泉苑で御霊会を行い、雨乞いの祈願をした。

974年、祇園御霊会が勅祭に

また天禄元年(970)に行われた御霊会が祇園祭の起源とする説もある。
天延2年(974)には、64代円融天皇によって祇園御霊会が勅祭となった。

神泉苑〜昔はもっと大きかった

徳川家康が埋め立ててしまい、1/10の面積に

現在も残る神泉苑はそれほど大きな池ではない。
これは徳川家康によって二条城(元離宮二条城)が造営される際にほとんどが埋め立てられてしまったからだ。
平安京造営時には東西約240メートル、南北約500メートルもの巨大な池で、現在と比べると10倍もの面積があったという。

朝廷の公式な庭で、歴代天皇の宴遊の場だった

この巨大な池があったのが、平安宮と接する二条通と三条通の間の左京である。
豊富な水を湧出し続ける神泉苑を無理に造営することは避け、平安宮の禁苑(宮殿の庭)として位置付ける策がとられた。
こうして神泉苑は朝廷の公式な庭として宴遊の場となり、歴代天皇の行幸(天皇が外出すること)や花見などが行われた。

水の重要さを意識し、御霊会は神泉苑で行われた

疫病鎮めの御霊会が、寺社ではなく神泉苑で行われたのは、水への恐れがあったためだろう。
当時の人々も疫病が不衛生な水によって広まることを本能的に理解していた。
そのため、平安京遷都前から太古の水をたたえる神泉苑が神聖視され、御霊会が行われたのではないだろうか。

町衆による祇園祭の維持

応仁の乱の影響で33年間、祇園祭が中止に

祇園祭はもともと官祭(朝廷が行う祭事)の性格が強いものだったが、応仁の乱(1467〜1477)によって京都の町が灰燼に帰すと、祇園祭は33年間にわたって中止されることになる。

1500年に町衆によって祇園祭が再興

明応9年(1500)、町衆によって祇園祭が再興され、以降、行われるようになった。
さらに元亀2年(1571)、織田信長により比叡山延暦寺が焼き討ちされると、八坂神社は比叡山の支配から離れた。

祇園祭の管理が町衆によって計画的になされるように

16世紀後半になると、祇園祭の山鉾の組み立てや費用を負担する町組が組織されるようになり、鉾町や寄町と呼ばれる自治組織が誕生した。
現在でも山鉾は主にそれぞれ町ごとに管理・運営されている。

現在まで1000年以上も続く伝統の祭り

祇園祭の山鉾巡行は、ユネスコの無形文化遺産に登録され、現在も1000年以上続く祭りの伝統が受け継がれている。
令和2年(2020)には本殿が国宝に指定された。
京都屈指の古社、文化継承の聖地として現在も多くの人々が参拝に訪れる。

八坂神社が祇園に創建された理由

少し高い位置にある八坂神社

疫病が蔓延しやすかった京都において、なぜ八坂神社は現在の地に創建されたのか。八坂神社の西楼門前には石段があり、八坂神社境内は少し高い位置にあることがわかる。歌人としても知られる藤原俊成は、「霧の内もまづ面影にたてるかな西の御門の石のきざはし(階)」という和歌を残している。

八坂神社は【断層によって隆起した地形】に鎮座する

実は、八坂神社の前には断層があり、八坂神社の境内地は隆起した場所にある。京都盆地の東部にある東山の山地と平地の境界にある花折断層帯は、京都府宇治市から滋賀県高島市まで約58キロメートルにも及ぶはなれ長大な断層帯である。断層のずれの種類や活動時期から、断層帯は北部・中部・南部の3つに分けられる。北部と中部が横ずれ断層なのに対して、南部は断層の東側が西側に対して隆起する逆断層である。

断層にも神秘的な力が籠ると考えられていた

八坂神社は、花折断層帯の中部と南部がちょうど重なり合うエリアに位置している。この中南部の花折断層帯の最新の活動時期は2800年前から6世紀といわれている。八坂神社が創建されたのは7世紀中頃であることを考えると、断層の活動が収まったのちに八坂神社(祇園社)が創建されたということになる。八坂神社の地は、断層が走る地震の発生源であり、断層によって隆起した地形となっていることから、神威が発揮される場所と考えられたのだろう。

断層に沿って鎮座する神社は多い

『二十二社註式』では、八坂神社の祭神について、現在地の前に京都市左京区の北白川東光寺に祀られたとあるが、ここも花折断層帯の上にある。さらに八坂神社と同じく牛頭天王を祀り、北の祇園社と呼ばれる八大神社や鷺森神社も断層に沿って鎮座している。

かつては「天然の神棚」のように見えたか

八坂神社は周囲から100メートルほど高い断層崖に建っている。高層建築物が少なかった時代には、京の都中から祈ることができる巨大な「天然の神棚」のように見えたことだろう。人々は疫病退散を願い、八坂神社に祈りを捧げたのである。


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