大神神社と三輪山の歴史

大神神社〜オオモノヌシを祀る

目次

大神神社(おおみわじんじゃ:奈良県桜井市三輪)は謎と神話に満ちた最古の神社1つ。神体山は三輪山。三輪山は初期ヤマト王権の本拠地だったが、出雲系の神・大物主神(オオモノヌシノカミ)が主祭神として祀られている。10代崇神天皇が祀ったとされ、このころ祭祀が始まった。

旧来は美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれた。中世以降は三輪明神と呼ばれ、両部神道の一つ三輪神道の本拠地であった。明治時代になり「大神神社」と改名。

祭神・オオモノヌシは出雲系の神

ヤマト王権の本拠地に祀られた出雲系の神

日本には八百万の神と呼ばれる無数の神々が存在するが、一柱の神にもさまざまな側面があり、ときとして別の神として登場することがある。 大神神社の祭神の大物主神(オオモノヌシノカミ)は、出雲大社の祭神・大国主神の恵みをもたらす側面である、幸魂(サキミタマ)・奇魂(クシミタマ)とされる。 なぜ本来、出雲系の神である大物主神が、ヤマト王権の本拠地に祀られたのか。 謎多き最古の神社の歴史をまとめる。

大物主神がみずから三輪山を望む

大国主神の出雲の国造りのころのお話

大国主神が出雲の地で国づくりをした際、幸魂・奇魂である大物主神が現れ、国づくりを完成させるとともに三輪山に鎮まることを望んだ。ということが、『日本書紀』に記されており、これが大神神社のはじまりとされる。

初期ヤマト王権の本拠地を守護

10代崇神天皇が三輪山に大物主神を祀ったという

10代崇神天皇は、疫病が蔓延した際に三輪山の大物主神を祀ることで疫病を鎮めたとされる。崇神天皇は実在する最初の天皇とも考えられており、3世紀末から4世紀にかけて、三輪山の麓にある纒向を中心に多くの遺跡が残っていることから、三輪王朝と呼ばれることもある。

三輪山〜初期ヤマト王権の守護神

初期ヤマト王権の守護神として、三輪山(大神神社)は重要な存在だったと考えられる。
記紀に記されている最古の官道といわれる山の辺の道が三輪山の麓を通っており、その道筋には崇神天皇陵(行燈山古墳)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、伊勢の神宮の元伊勢でもある檜原神社、大神神社の摂社である狭井神社などがある。

三輪山で本格的な祭祀が始まった(とみられる)

本格的な祭祀は初期ヤマト王権の時代にはじまったとみられる。
また三輪山の山中にある磐座などから、はるか太古から、この地で原始の信仰があったことがうかがえる。

王権の本拠が移った後も大神神社の重要性はかわらず

大神神社の重要性は、ヤマト王権の本拠地が他に移された後も変わらない。
平安時代になっても、大神祭、鎮花祭、三枝祭といった祭事が朝廷によって斎行された。
延長5年(927)にまとめられた神社一覧『延喜式』の神名帳には、最高位の社格である官幣大社とされ、さらに、家的な大きな異変があった際に、その解決を図るために祈願される名神大社となっている。

大和国で最も社格が高い大和国一宮

11世紀後半になると、こうした変事に国家祭祀が行われる神社は「二十二社」に集約された。
二十二社は上七社、中七社、下八社に分けられ、大神神社は中七社の1つである。
また大和国(奈良県)の中で最も社格が高い大和国一宮にも列せられている。

神仏習合により【寺】と化す

神宮寺が建立〜神と仏を同一視する神仏習合

日本では仏教伝来以降、神と仏を同一視する神仏習合が進んだが、大神神社でも神の成仏を助けるための神宮寺が建立された。

長らく寺が建立されるも、一時、廃仏される

室町時代に制作された絵図には、大御輪寺と平等寺という2つの神宮寺が描かれている。
明治時代になると、神道と仏教を分離する神仏分離はい令が出され、仏教への排斥運動・廃仏毀釈が行われた。
大神神社の神宮寺もこの廃仏毀釈によって廃寺となるが、平等寺は昭和52年(1977)に再建されている。

中世における神仏習合の信仰

大御輪寺(奈良時代)と平等寺(鎌倉時代)の二つの寺

大御輪寺は奈良時代に「大神寺」として創建されたとされる。
平等寺は「三輪別所」と呼ばれ、鎌倉時代に天台宗の僧侶・慶円が創建したとされる。
一方で、両寺とも厩戸皇子(聖徳太子)が開山したとする伝承がある。

中世以降、神社は密教や修験道(仏教や道教などの多様な宗教が混ざった山岳信仰)などの影響を受け、祭神に対する理論化が行われ、独自の信仰体系が形成されていった。

三輪神道〜大物主と天照を同一視する信仰

大神神社でも、「三輪神道(三輪流神道)」と呼ばれる独自の信仰が生まれた。三輪神道を創始したのは、平等寺の慶円である。
伊勢信仰と結びついた両部神道では、密教の本尊である大日如来は天照大御神と同一視された。
三輪神道では、大日如来が天上世界では天照大御神として現れ、地上世界では三輪明神(大物主神)として現れたと考える。
つまり、天照大御神と三輪明神を同体としたのである。
室町時代の謡曲「三輪」(作者不明)では、「思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事」とある。

江戸時代に4代家綱が拝殿を造営

江戸時代になると、江戸幕府からも信仰され、4代将軍徳川家綱によって拝殿が造営されている。

明治時代に「大神神社」に改称

明治時代になると神仏分離令によって、現在の「大神神社」に改称された。
明治時代に廃寺となった大御輪寺の本堂は、その後、大神神社に移築され、摂社・大直禰子神社(若宮社)の社殿となっている。

日本の原初的な信仰を色濃く残す

神仏習合時代を経て複雑化もした

中世における神仏習合の時代は、古代の原始信仰とも現代の信仰とも異なるものであり、その状況を確かめることは難しくなった。
一方で現在も、磐座や神体山という日本の原初的な信仰を色濃く残している。


↑ページTOPへ