中国を除くアジア諸国に先駆けて発行された皇朝十二銭、これらはなぜ日本国内で殆ど流通する事なく廃れてしまったのか。
逆になぜ中国銭は流通したのか?をまとめる。
>> なぜ中国銭は流通したのか
日本で最初に発行された通貨といえば、683年につくられた富本銭が知られる。
富本銭が実際に使われたものか、あるいは呪術的な儀式のために用いられた「厭勝銭(ようしょうせん)」であるかは正確には判っていない。
近年では実際に交換手段として使用された通貨と考えられている。
大宝元年(701)に制定された大宝律令では富本銭の私造(偽造)が禁じられたことから、流通していたと考えられている。(実際に使われていないなら偽札(銭)を作る理由がないため)
当時のアジアにおいて中国以外で金属貨幣を鋳造し、交換手段として用いられるようになったのは日本だけであり、画期的なことだった。
富本銭
飛鳥池遺跡の発掘調査により、多数の富本銭や鋳型などが出土し、ここにあった工房で富本銭が鋳造されていたことが明らかとなった。富本銭は『日本書紀』天武12(683)年条にある「今より以後、必ず銅銭を用いよ」の銅銭にあたる可能性が高く、和同開珎(708年発行)をしのぐ国内最古の鋳造貨幣である。(『山川 詳説日本史図録』より引用)
さらに708年(和銅元年)に和同開珎が発行されると、以降、958年(天徳2年)の乾元大宝まで、朝廷は全部で12種類の銭貨を発行したが、これを皇朝十二銭と呼ぶ。
新たな貨幣が誕生した以上、以前の通貨は廃れていっただろうと考えられ、早くも“日本銭の流通に失敗した”といえる。
朝廷は、銭の普及のために様々な策を講じた。
例えば、和同年間(708〜715)には、田地の売買には銭を用いることを義務付けたほか、納税に銭を用いることも許可した。
和同開珎は、貴族の給料の一部として支払われた。
その基準は銭1文あたり籾殻付きの米6升(当時の1升は現在の4合にあたる)とされた。
平城京建設にあたる労働者の日当は、銭1文だった。
和同開珎は現在の小銭ではなく、一文でお札以上の価値を持っていたのである。
また銭を供給し続けると、銭を際限なく製造することになってしまうために、回収する政策も行った。
そのひとつが蓄銭叙位法と呼ばれるもので、銭を貯めることが国司などの地方官に任用される際の条件となった。
(現在のように、お金を刷りすぎると消費が進んで物不足になる(インフレになる)、という現象が起こるほど大量の貨幣を鋳造する事は出来なかった。貨幣くらいは無尽蔵に鋳造できないと貨幣経済の浸透は難しいだろう)
こうした政策は一定程度の効果があり、平城京周辺では銭の流通量が増加した。
当時の東大寺の売買記録にも、銭を用いたことが記されている。
ところが、和同開珎は約50年間続いたが、当初から偽造銭が多く造られた。
朝廷側も銭を偽造した者を斬首にするなど厳しく取り締まったが、偽造銭が減ることはなかった。
やがて全流通量の半分を偽造銭が占めるようになり、銭全体の供給量が過剰になると和同開珎の価値は下落した。
そこで760年(天平宝字4年)に、開基勝宝(金銭)・太平元宝(銀銭)・万年通宝(銅銭)の3種の銭が発行された。
交換レートは、金銭1枚=銀銭10枚=銅銭100枚=旧銭(和同開珎)1000枚である。
ただし、金銭と銀銭は記念コインのようなものであったようだ。
万年通宝は和同開珎の10倍の価値があるわけだが、万年通宝は和同開珎よりもわずかに大きいだけでほとんど変わらなかった。
そのため、人々は敬遠し、その価値は下がった。
万年通宝は発行から1年後には和同開珎と同じ価値となった。
朝廷は旧銭の10倍の価値で新銭を発行するようになるが、やがて旧銭と等価に価値が下がることが繰り返された。(神功開宝(765)を除く)
朝廷はこのため10〜20年というサイクルで新銭を乱発し続けることになる。
皇朝十二銭のうち、最後の乾元大宝が発行された10世紀になると、人々は日本銭を使用しなくなった。
日本銭を発行しなくなった理由は、9世紀以降に国内の銅の産出量が減少したことや、遷都が行われなくなり大規模な建設事業がなくなったこと、戦争などによる臨時出費がなかったことなどが挙げられる。
当時の銭は、国の支払い手段として発行されたものであり、巨額の歳出がなくなったために新銭を発行する必要がなくなったのである。
また、貨幣を取り締まる役人が不正を犯すなど、朝廷の貨幣に嫌気がさした人々が増えて信頼が低下した点も看過できない。
ただし、銭の発行がなされなくなっても、銭は社会に流通したままである。
10世紀後半に著された長編物語『うつほ物語』には、銭を賭けて囲碁の勝負をするシーンが登場する。
しかし、銭の価値は10世紀末になると金属そのものの価値まで下がり、使われなくなったのである。
しかし、この「金属の価値が銭の価値となる」というのがポイントで、これを前提にする事で、やがて日本銭が流通し始める。
銭の代わりに交換手段となったのは、米や布といった物品である。
和同開珎が発行された8世紀以降、米・麻布・絹布なども通貨として用いられていた。
つまり、銭がなくても通貨の代わりとなるものが存在していたのである。
この「米と布が貨幣の役割を果たす時代」は長く続く。
日宋貿易によって大量の宋銭が日本にもたらされた事で、宋銭が銭として流通し(価値は朝廷が出した銭のような高額ではない)、荘園内では銭による納税「代銭納」 が普及し始める。
が、これはあくまで宋銭(外国銭)であり、日本銭ではなかった。
現存する宋銭(『山川 詳説日本史図録』より引用)
江戸時代頃から、本格的に貨幣が売買の為に流通するようになり、明治時代に入ってから完全な貨幣経済に移行する。
皇朝十二銭の流通は、ほとんどは平城京や平安京の周辺部にとどまり、10世紀にはその役割を終えた。
その後、銭は商取引にほとんど用いられなくなった。
しかしその反面、日本銭ではなく、中国銭が日本国内で流通、商取引にも用いられることとなる。
12世紀中頃、平清盛の日宋貿易によって、中国・宋の中古の銅銭が大量に日本に流入することになる。
少し時を遡り、遣唐使の派遣は894年(寛平6年)に廃止されたものの、民間レベルでの通交はその後も続き、10世紀後半には宋の商船が九州地域を中心に来航して商取引が行われた。
そのため博多周辺では、中国商人のコミュニティと、取引を行う日本商人の間で中国銭が流通していた。
局地的に使われていた宋銭が日本で広く流通するようになったのは、12世紀中頃に平清盛が博多と大輪田泊(神戸)の港湾開発を行い、日宋貿易を本格化させたことによる。
当時の日本の主要輸出品は銅や硫黄といった鉱山資源であり、一方、宋からの主要な輸入品の1つが中国銭だった。
輸出品の代価としてだけでな中国銭そのものを輸入したのである。
この輸入された中国銭(宋銭)は、溶かして、鎌倉の大仏の原材料に使われた可能性が指摘されている。
皇朝十二銭が朝廷の支払い手段として用いられ、交換比率が定められていたのに対して、中国銭に同じような統制は行われなかった。
また宋銭が納税手段として朝廷が促した記録もない。
1179年(治承3年)、右大臣の九条兼実は中国銭の流通の実地調査を検非違使(警察業務などを担当する行政官)の中原基広に命じた。
調査を行った基広は、貨幣の偽造は重罪であり、中国銭を用いることも同様として、使用禁止を進言した。
これに同意した九条兼実は中国銭の使用禁止令を出す。
ところが、中国銭の流通はその後も進み、わずか100年ほどで利用率は25%から75%へと増加している。
禁止令が出されたにもかかわらず、中国銭が流通した理由は2つ上げられる。
1つは博多という限定された地域ではあったが、そこで中国銭が使われていたことが挙げられる。
宋との交易が活発化するにつれて、博多から徐々に中国銭の使用が連鎖的に広がっていったのである。
もう1つは、十分な量の中国銭がもたらされたことである。
銭が流通するためには「一般的受容性」を備えなくてはならない。
一般的受容性とは、誰もが受け取ってくれる性質のことである。
例えば、米は多くの人が欲しがるモノであり、交換しやすい。
そのため米は一般的受容性を備えており、通貨として銭の代わりに用いられたのである。
中国銭が大量にもたらされたことで、それまで銭を使用していなかった人も銭による取引を目にすることになる。
すると銭への需要がさらに高まる。
この連鎖反応によって、中国銭は一般的受容性を備えるようになったのである。
鎌倉幕府は当初、九条兼実の中国銭の使用禁止令を引き継いだが、のちに中国銭の利用を追認した。
1226年(嘉禄2年)、幕府はそれまで絹布単位で定めていた納税額を銭に改め、このほかの価値尺度にも銭が採用されるようになった。
貨幣が一般的受容性を備えるためには、偽造されないことが重要である。
中国銭は先進的な精錬技術によってつくられており、日本では偽造できない。
また中国王朝の財政健全性も中国銭の信用度を高めた。
こうした背景から、鎌倉幕府は新たな貨幣の鋳造や流通させるためのコストを負担するよりも、中国銭を認める方策をとったのである。
13世紀から14世紀にかけての100年間に日本にもたらされた宋銭の量は約25万貫文(1貫文は1000文)で、宋が鋳造した銭の総量の8分の1が日本に流入したという推計がある。
鎌倉幕府が中国銭を追認したもう1つの理由が、在地領主からの要望があったためだった。
遠隔地にある荘園からの貢納を銭にすることが求められた。
銭による貢納を行った荘園数は1251〜1300年の間で38件だったのが、1301〜1350年の間には126件と急増したのである。