代銭納

貨幣流通と年貢の代銭化

平清盛による日宋貿易によって日本に大量の宋銭が流入、これによって日本では貨幣の流通が本格化していく。
貨幣が流通する事で貨幣の利便性が浸透していき、年貢を銭で納める「代銭納」も普及していった。

中国の銅銭が大量にもたらされる

中国との貿易「日宋貿易」

最初の武家政権を立てた平清盛は、日宋貿易にも力を入れた。
現在の兵庫県神戸市にあたる福原に拠点を構えて大輪田泊を修築し、1170年(嘉応2年)には最初の宋船を来航させた。
遣唐使の中止後、貴族社会は国交や通商に対して消極的だったので、清盛の対外政策は革新的なものだった。

日宋貿易の交通路『山川 詳説日本史図録』より引用

日宋貿易の交通路
日宋貿易により大量に輸入された宋銭は、日本経済に大きな影響を与えた。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

貨幣経済の始まり

中国から大量の銭「宋銭」が入る

宋の貿易船は絹織物や陶磁器などを日本に運び、大陸で不足していた木材や硫黄を積んで帰った。
しかし、行きと帰りでは重量バランスが悪かったので、往路では船を安定させるために大量の銅銭(宋銭)を積んだ。
これが日本商人の間で浸透し始め、本格的な貨幣経済の時代に入った。

『山川 詳説日本史図録』より引用

現存する宋銭(『山川 詳説日本史図録』より引用)

「銭の病」というデマが流行

1179年(治承3年)には諸国で疫病が流行したが、人々は「大陸から渡来した銭に疫病がついていた」と噂し「銭の病」と呼ばれた。
こう呼ばれたのは、人々の暮らしの中に銅銭が広まっていたことを示している。

朝廷・公家は異国の通貨を嫌った

貴族社会では異国の通貨を用いることを嫌悪し、朝廷は1187年(文治3年)と1193年(建久4年)に宋銭停止令を発布。
しかし、貨幣経済への移行を止めることはできなかった。

日本製の貨幣は少な過ぎた

日本でも本朝十二銭(朝廷が公式に発行した12種類の穴銭)を鋳造していたが、なかなか浸透しなかった。
それにもかかわらず宋銭が浸透したのは、良質な銭が大量に入手できたからといわれる。
平安時代の日本の銅銭鋳造量が年間3500貫文(350万枚)だったのに対し、宋は11世紀後半には年間600万貫文(60億枚)も鋳造した。
この規模の鋳造が200年も続いたので、日本にも大量の銅銭がもたらされたのだ。

本朝(皇朝)十二銭『山川詳説日本史図録』より引用

本朝(皇朝)十二銭(『山川詳説日本史図録』より引用)

中国の貨幣は凄まじい量だった

さすがに大量の銭貨流出が問題になり、宋では銅銭を国外に持ち出すのを禁じる法令が出されることがあった。
しかし、13世紀に中国大陸を制圧したモンゴル帝国は、貨幣よりも紙幣の使用を重んじた。
中国の江南地方では銅銭の使用が禁じられ、不要になった銅銭が日本に大量流出した。
日本と中国の間では、毎年20〜30隻の商船が行き来していた。
そこから推測すると、日本には毎年20万貫文(2億枚)前後の銭を輸入していたと考えられる。

銭の流通が年貢の銭化を後押し

銅銭の流通拡大は、年貢を銭で納める流れを生み出した。
かつては商品自体が貨幣としての価値を有し、布や麻布が現物貨幣として用いられていた。
これが銭に置き換えられ、鎌倉幕府も麻布の年貢を納めるように命じている。

流通が便利になる

一方で、価値が高い絹布については、現物を求める荘園領主も少なくなかった。
貨幣経済への移行を嫌う層もあったが、年貢物が銭貨に置き換わるのは運送効率や販売の面でメリットが大きかった。
商業が発展する下地になり、年貢や公事物を集積する港湾都市も発達した。

各地の荘園で代銭化が進む

年貢を現物でなく銭で納めること代銭納といい、鎌倉時代を通じて移行が進んだ。
例えば、若狭国太良荘では1270年(文永7年)から年貢米の未進分などを銭で代納していたが、1290(正応3年)には本年貢の一部を銭15貫文で納めていた。
1317年(文保元年)には米と銭を半々で納めるようになり、1333年(元弘3年)以降は代銭納が定着した。

銭は小さく運びやすい

畠年貢の麦や大豆、栗や蕎麦などの作物や、油や鉄などの産品は、米よりも早くから代銭納が進んだ。
また、年貢以外の貢納物である公事も代銭納となった。
百姓にとって公事物の調達や人夫役は重荷だったが、代銭納によって解放された。

年貢物が変わり、人間関係にも変化が

一方で、便利な代銭納は荘園領主と荘民の関係に心理的な変化を与えた。
年貢が現物で届くと、荘園領主はその品評を行うなどして楽しんだ。
また、百姓が兵士役として上洛したら、彼らと顔を合わせる荘園領主もいた。
しかし、代銭納の浸透でそれもなくなり、領主のもとには銭の束が無機質に届けられるだけになった。
領主と百姓の間にあった人情的な繋がりが代銭納化によって失われ、利害関係のみの銭のやり取りになった。
これは、その後の荘園社会に大きな影響を与える変化であった。


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