越から稲作が伝来

中国・越から日本に稲作が伝来

戦火を逃れて伝来した人々

中国の江南地方では、古代日本人の間で行われていた抜歯風習の跡がある人骨が見つかっている。
春秋戦国時代の中国から江南地方の人々が戦乱を逃れて海に出て、日本列島に渡来し稲作を伝えた可能性がある。

日本と似た文化の土地

中国江南地方

日本に稲作が伝わったルートは諸説あるが、考古学や植物学の分野では、中国の江南地方から伝わった可能性が高い。
この地では古くから稲作が行われていたが、日本と似た文化や風習の遺構・遺物も見つかっており、戦乱を逃れた避難民が対馬海流に乗って海を渡って日本に渡来して来たという説もある。

江南地方で出土した抜歯した人骨

古代日本人にも抜歯風習があった

実際、長江の河口域にある江蘇省徐州市郊外の梁王城遺跡では、約5000年前の男性の人骨が出土。
古代日本人の間で行われた抜歯風習の跡が確認されている。
この地には、祝いごとや服喪の際に健康な上顎側切歯を抜歯する風習があったようだ。
渡来系弥生人と江蘇省の人骨には頭や四肢の骨の形状にも共通点があり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠がある。

日本製に似た磁器の鐸

また、江蘇省無錫市の越国の貴族墓でも、日本製に似た磁器の鐸が発見されている。 時代は前470年頃のものとみられ、古代日本で作られた銅鐸がもともと越から伝わった可能性が指摘される。

越時代の貴族墓で出土した鐸

越時代の貴族墓で出土した鐸

海の旅は命がけ

危険を覚悟して海を渡って来た渡来人

日本近海や長江河口付近は頻繁に風向きが変わるので、海を渡るのは命懸けであった。
それでも江南の人たちが日本に渡来して来たのは、当時の大陸情勢が大きく関係していた。

中国では戦乱が絶えなかった

日本列島が弥生時代に入った頃、中国では「戦国七雄」と称される7カ国(秦・斉・・魏・趙・韓・燕)が争っていた。
江南地方を治めていたのは楚という国で、同じ江南にある呉や越を滅ぼして大勢力を築いたという。
しかし、秦や斉といった大国からの侵攻もあって争いが絶えず、その争いを避ける為に大勢の人達が海を渡り、日本列島に渡来して来て水稲耕作を伝えた可能性が高い。

日本神話と史実の類似性

神話の神様→渡来人、説

日本の神話では、アマテラスが孫のニニギに稲穂を授け、稲作を広めて地上世界を豊かにするよう命じている。
だが実際は、江南の人々が稲作普及の役割を担っていた。
スサノオも高天原から地上(葦原中国)に降りて来た際、鉄器や五穀の種子を日本に持ち込んでいるが、日本神話において、渡来人の役割を神の役割として描いてあるケースが多い。

楚国〜日本と似た文化の地

独自の文化を形成した楚国

楚は春秋戦国時代に江南地方を治めた国で、前223年、楚は秦の始皇帝によって滅ぼされたが、戦乱を逃れて日本列島に渡った楚人が水稲耕作を伝えたという可能性も考えられる。
楚は当時の中国大陸の中心地だった中原(現在の黄河流域周辺)から離れていたこともあり、独自の文化を形成していた。
抜歯もそのひとつで、動物信仰も盛んに行われていた。
江蘇省で出土した貨幣の多くは貝を模しているが、中原諸国の貨幣とは明らかに形状が異なる事から、他国との交易はそれほど盛んではなかった事が覗える。


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