藤原純友の乱

藤原純友の乱

藤原純友(すみとも)の乱は、平安時代中期(939〜941年)の瀬戸内海から博多湾に掛けて起こった争乱である。
ほぼ同時期、関東では平将門が反乱を起こしており、この二つの乱の総称として「承平天慶の乱」とも呼ばれる。
藤原純友は下級官人として伊予国に赴任したが、海賊の首領となり、約1000艘の海賊船団を率いて、国府などを襲撃して官物を収奪した。
この乱では漁村などが焼き払われるなどの損害も出ている。

藤原純友(安政2年、芳直画、築土神社蔵)

藤原純友(安政2年、芳直画、築土神社蔵)

海賊・純友が瀬戸内海を荒し回る

伊予(愛媛県)の日振島を拠点に、約1000艘の船を率いた海賊の首領・藤原純友は、もとは朝廷の役人であったが、939年12月に突然蜂起し、朝廷に対して反旗を翻した。
さらに純友は摂津(兵庫県)で備前介藤原子高に対して凄惨な暴力事件を起こす。
また、京では純友の配下の者が放火を繰り返すようになった。

将門の謀反に便乗?

ちょうど同じ時期、関東では平将門が謀反を起こしたとして騒ぎになっていた。
当時から純友と将門は結託して騒ぎを大きくしたとも、将門の騒ぎを知った純友がその騒ぎに便乗して蜂起したともいわれていた。
(当時の時代背景から将門と純友が密に連絡を取っていたとは考え辛く、純友が便乗した可能性が高い)

懐柔策に出る朝廷

将門の乱への対応に謀殺される朝廷は、純友の乱にまで手が回らなかった。
そこで朝廷は、小野好古(おののよしふる)を追捕使(ついぶし)、源経基(つねもと)を次官に任じる一方、純友に対して五位という宮中に上がる資格のある官位を授けて懐柔する作戦に出た。

官位を受けても海賊行為を続けた純友

純友は官位を受け入れたにも関わらず、海賊行為は止めなかった。
純友は将門の謀反に狼狽える朝廷は、自分に手出しできないと考えていたようだ。
事実、将門討滅の報に動揺し、純友は日振島に船を返した。

純友討伐に朝廷が動く

東国の将門が滅亡したことにより、兵力の西国への集中が可能となったため、朝廷は純友討伐に動き出す。
朝廷は純友に対して「朝廷に従うか、それとも討伐されるか」の二者択一を迫る。

それでもやりたい放題の純友

それでも純友は海賊行為を止めず、伊予国、讃岐国、備前国、備後国、長門国を襲撃して官物を略奪。
さらに純友は追捕使の兵を討ち破り、周防(山口県)の鋳銭司(じゅせんし:貨幣鋳造所)を襲い、土佐国幡多郡を襲撃。
遂に大宰府を襲撃して略奪を行い始める。
しかし、博多湾に向かった小野好古と源経基は海賊船を焼き払い、純友軍はあっさりと壊滅する事になる。

乱の終結

朝廷軍にやり込められる純友

純友軍の幹部であった藤原恒利が朝廷軍に寝返り、純友の本拠であった日振島を攻め破った。
その後、純友軍は西に逃れて大宰府を攻撃・占領するも、純友の弟・純乗が、大宰権帥の橘公頼にで敗れる。

純友の敗走

そして、小野好古が率いる朝廷軍が九州に到着する。
純友は大宰府を焼いて博多湾で朝廷軍を迎え打つが、純友軍は大敗してしまう。
そして、純友は小舟に乗って伊予に逃れる事となった。

純友の捕縛

辛うじて伊予に逃れた純友であったが、潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中死したという。

藤原純友を討ち取った橘遠保(国芳筆、築土神社蔵)

藤原純友を討ち取った橘遠保(国芳筆、築土神社蔵)


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