1993年、ノルウェーでの秘密交渉の後、ワシントンでオスロ合意が結ばれた。
国際社会の働きかけで結ばれた、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の和平協定である。
しかし、合意後も、双方に強硬派勢力が誕生するたびに、暴力の連鎖は止まず、和平は遠のいていった。
パレスチナ問題は現在でも、解決をみていない。
>> パレスチナ問題年表
第三次中東戦争(六日間戦争)の大敗でアラブ民族主義が後退すると、パレスチナ問題解決の主体は、アラブの盟主エジプトからパレスチナ解放機構(PLO)に移った。
1969年にPLO議長となったアラファトは、ヨルダン、レバノン、チュニジアと拠点を移しながら反イスラエル闘争を続けたが、80年代になると、イスラエル解体という当初の目標から、次第に現実路線へと転換した。
第三次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ人国家を建設する事を目標とした。
その占領地区では、87年以降、反占領を掲げる若者が第一次インティファーダと呼ばれる抗議運動を起こしている。
91年に湾岸戦争が起きると、イラクを支持したPLOに対し、湾岸諸国(クウェートやサウジアラビア)は資金援助を停止した。
苦境に陥ったPLOと、インティファーダの鎮圧に手を焼くイスラエルは歩み寄りを模索し、ノルウェーの仲介で、93年にオスロ合意と呼ばれるパレスチナ暫定自治協定が結ばれた。
協定に基づき、94年にはパレスチナ自治政府による先行自治が開始されるなど、和平の動きがみられた。
しかし、オスロ合意に調印したイスラエルのラビン首相が暗殺した後、事態は急変する。
96年のイスラエル首相選挙で右派政党リクードのネタニヤフが選出されると、和平の進展は滞り始める。
さらに2001年のリクードのシャロンが首相になると、前年からの第二次インティファーダに対して苛烈な攻撃を加えるとともに、ヨルダン川西岸地区を再占領した。
パレスチナ側では2006年の評議会選挙でイスラム原理主義組織のハマスが勝利しする。
その後、ガザ地区を占拠してイスラエルへの攻撃を続け、イスラエルが空爆で対抗する等、暴力の連鎖は止んでいない。
西暦 | パレスチナ | イスラエル |
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1967年 | 第三次中東戦争 イスラエルがガザ地区・ヨルダン川西岸地区を占領 |
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1969年 | アラファトがPLO議長に週に院 | |
1982年 | PLO本部のあるレバノンに侵攻 | |
1987年 | 第一次インティファーダ ガザ地区で起きたイスラエル人の交通事故を機に若者が蜂起。抵抗運動は占領地全体に広がった。 |
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1990年 | クウェート、サウジアラビアがPLO支援を停止 | |
1991年 | 中東和平全体会議開催 米・ソの主導により、パレスチナとイスラエルが包括和平を目指して直接交渉を開始。 |
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1993年 | オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定) ノルウェーでの秘密交渉で合意に達し、クリントン米大統領立ち合いのもと、ワシントンでアラファト議長とラビン首相が調印。 |
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1995年 | ラビン首相暗殺 | |
1996年 | パレスチナ自治政府成立 | ネタニヤフ首相就任 |
2000年 | 第二次インティファーダ リクードのシャロン党首がエルサレムのイスラム教聖地に立ち入った事で発生。 パレスチナ側は自爆テロなどで抵抗。 |
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2001年 | シャロン首相就任 | |
2002年 | ヨルダン川西岸地区に侵攻 分離壁の建設を開始 |
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2003年 | 新中東和平案(ロードマップ)提示 米・ロ・EU・国連で提示した和平案で、イスラエルがパレスチナの2国家共存を最終目標に掲げ、パレスチナにはテロ行為の停止を、イスラエルには占領地への入植の停止などを求めている。 |
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2004年 | アラファト死去。 アッバスがPLO議長に就任 |
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2005年 | アッバスが自治政府大統領に就任 イスラエルとの停戦に合意 |
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2006年 | ハマス主導の内閣成立 PLO主流派ファタハの腐敗などもあり、パレスチナ自治評議会選挙でハマスが圧勝した。 |
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2007年 | パレスチナ自治政府分裂 ファタハと対立したハマスがガザ地区を占拠。 |
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2008年 | ガザ戦争 ハマスの攻撃に対し、イスラエルが空爆を実施。 |
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2009年 | ネタニヤフが再び首相に就任 | |
2011年 | ファタハとハマスが和解 | |
2012年 | 自治政府が「オブザーバー国家」に 国連で自治政府が「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げされた。 |