1967年、イスラエルの電撃的な先制攻撃により、周辺のアラブ諸国は僅か6日間で広大な領土を占領された。
この敗戦を受け、アラブ民族主義は挫折し、エジプトの権威が失墜する結果に。
これ以降、資源ナショナリズムが台頭し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が結成。
>> 年表
スエズ運河の利権を掛けた第2次中東戦争(スエズ動乱)では、国際的な指示を受けたエジプトの勝利に終わった。
この動乱以後、アラブ民族主義の指導的地位を確立したエジプトのナセル大統領だが、1960年代に入ると影響力に陰りが見え始める。
58年に成立したアラブ連合共和国がシリアの脱退で61年に瓦解した他、62年に始まったイエメン内戦に介入したエジプトは、内戦の長期化で疲弊していった。
そんなナセルの権威を完全に失墜させたのが67年の第3次中東戦争である。
イスラエル軍がシリア方面(エジプト・イスラエルの北東)に展開しているとの情報を得たエジプトは、シナイ半島(エジプト・イスラエエルの間)に軍を展開、アカバ湾の封鎖を宣言した。
これに対し、イスラエル空軍は6月5日早朝にエジプト空軍基地を急襲、エジプト空軍は壊滅的なダメージを受ける。。
この攻撃で完全に制空権を確保したイスラエルは、エジプトからシナイ半島とガザ地区を、ヨルダンからエルサレムとヨルダン川西岸地区、シリアからゴラン高原を奪い、戦争は6日間で終了した。
この「六日間戦争」での大敗北を受け、アラブ世界の勢力図は一変する。
エジプトに代わってサウジアラビアをはじめとする親米派の王政国家が台頭する。
68年にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成するなど、資源ナショナリズムがアラブ民族主義に代わる指導的思想となっていった。
また、エジプトの管理下に置かれていたパレスチナ解放機構(PLO)の議長にパレスチナ軍人のアラファトが就任し、以後、パレスチナ問題の解決はパレスチナ人自身の手に委ねられる事になった。
西暦 | 出来事 |
---|---|
1956年 |
|
1958年 |
|
1964年 |
|
1967年 |
|
1969年 |
|