イラン革命

イスラム復興運動 イラン革命

イスラム復興運動による革命に世界中が動揺【1979年】
親米のパフレビー2世によって、イラン経済は急速に発展するも、官僚らによる富の独占と、強権的な弾圧政治に民衆が蜂起。
イスラム原理主義に基づく革命が成功し、イスラム法に基づく国家、イラン・イスラム共和国が建国された。
これ以降、中東情勢の新たな不安定要素となり、ソ連のアフガニスタン侵攻や第二次石油危機など、様々な問題を引き起こした。
>> イラン革命年表

経済は成長するも、貧富の差はなくならず

親米政権による白色革命

1953年、イランでは、軍部と米中央情報局(CIA)が画策したクーデターで、モサデグ政権が倒れた。
そして、親米派の国王ムハンマド・レザー・パフレビー(パフレビー2世)が政権に復帰する。
以後、アメリカを後ろ盾としたパフレビー2世は、57年に創設した秘密警察サバクによって国民を弾圧。
その一方、63年からは農地改革や工場労働者への利益還元、女性参政権の付与、識字率の向上などからなる「白色革命」を推し進めていく。

官僚らが富を独占

この近代化改革に加え、安定した石油収入に支えられたイラン経済は、60年代には年率10%近い成長率を記録する。
石油危機後に石油が高騰した74年には51%という驚異の経済成長率を達成している。
ただし、これら経済成長で得た富は国王と、特権階級化したその側近に集中し、逆に伝統的な手工業者やバザール商品の没落を招いた。
さらに、農民の都市流入によって生活環境が悪化した国民は、次第に不満を募らせていった。

イスラム原理主義に基づくイラン革命

イスラム社会への回帰が民衆の望み

彼らの不満の受け皿となったのは、伝統的なイスラム社会への回帰シャリーア(イスラム法)に基づく政治を唱えるイスラム原理主義であった。
その指導者であるルーホッラー・ホメイニは反政府活動により64年に国外追放されていたが、亡命先のイラクから国王批判を続けた。
また、巡礼者を通じて彼の演説テープがイラン国内に流入しており、その主張は静かに民衆へと浸透していったのである。

国王逃亡で、イスラム法に基づく国が建国

78年、シーア派の聖地コムでの講義デモで多数の死者が出ると、各地でデモが頻発する。
シーア派最大の祝祭日であるアーシューラーに合わせた12月10日のデモには150万人が参加した。
翌79年1月、パフレビー2世は国外脱出を余儀なくされ、2月初頭には入れ替わるようにホメイニが帰国する。
4月にはイラン・イスラム共和国の建国を宣言した。

イラン革命が世界に及ぼした影響

このイラン革命は周辺国に大きな衝撃を与えた。
隣国でのイスラム原理主義者の台頭を恐れたソ連は、アフガニスタンに軍事介入し、ほぼ全てのイスラム教国は革命の波及を恐れた。
特にイラクのサダム・フセインは、80年にイランに侵攻し、イラン・イラク戦争を起こしている。
さらにイランでの石油生産が中断した事で、原油価格が急騰し、第二次石油危機も発生した。

イラン革命 年表

西暦 出来事
1951年 モサデグ首相が就任
アングロ・イラニアン石油の国有化を実施
1953年 国王派のクーデター勃発
米CIAなおの支援を受けた国王派がクーデターを起こし、ムハンマド・レザー・パフレビー(パフレビー2世)が亡命先から帰国。
1955年 中東条約機構(METO)結成
1963年 「白色革命」開始
農地改革や国営工場の民間払い下げ、女性参政権付与などの内政改革を始めた。
1974年 原油価格高騰
同年のイランの経済成長率は51%に達し、産業近代化や軍備増強を実施。

新興特権層が台頭する反面、伝統的手工業者やバザール職人が没落。
秘密警察により、言論の自由も抑圧される。
1978年 コムで反政府デモ発生
1月、体制側による亡命中の宗教指導者ホメイニ批判に対する抗議デモで多数の死傷者が出る。
12月、全国150万人規模の反政府デモが発生。
1979年
イラン革命
1月、パフレビー2世が国外に亡命
2月、ホメイニが帰国
4月、イラン・イスラム共和国成立を宣言
11月、アメリカ大使館占拠事件勃発(〜81年1月)
1980年 イラン・イラク戦争勃発

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