家康の経済政策

家康の経済・金融政策

江戸に幕府を開いた家康は、天下普請で江戸城を拡張、新たな日本の中心として江戸の都市改造に取り掛かった。
そして、日本橋を起点とする交通網整備を進め、貨幣政策海外交易の振興など、次々と経済基盤の拡充施策を展開していく。
天下人となった家康の事績をみてみる。

400万石の直轄領

家康が日本全体の1/4を支配

幕府を開いた家康は「天領」と呼ばれる約400万石の直轄地のほか、直臣である旗本の知行地を加え、700万石もの所領を持つ事になった。
因みに、江戸時代における日本全国の石高は約3000万石といわれ、家康は日本全体の1/4をも支配する事になったのである。

農村からの年貢量が「幕府の力」となる

約400万石の天領の殆どは、農村であった。
家康が確立した体制は、農村からの年貢を経済の基盤としていたから、その生産性が幕府の権力を増減させる事になる。
このため、天領における年貢の徴収には、厳しいものがあった。

農民の生活は“ギリギリ”

『落穂集』によれば、家康は「郷村百姓共をば、死ぬ様に生ぬ様にと合致致し、収納申付る様」にと語ったという。
要するに“農民を生きるか死ぬかのギリギリのところで生活させるように”という考えである。

農民が経済力を持ち、下剋上を起こさぬ為

家康の腹心であった本多正信も、その著『本佐録』において「百姓は財の余らぬやうに不足なきやうに治ること道なり」と述べている。
年貢に余剰が生まれると、本多正信が言うように“財が余る”状況になる。
その場合、財を蓄積した農民が力を持つようになり、身分秩序は不安定になってしまう。
家康は、それが社会のバランスを崩す事になると恐れていたのだろう。
ギリギリ生産性が出来る程の生活を農民に強いる事にしたのである。
要するに“食べ物以外は持たせるな”という事であろう。

農村も武士が統轄する

こうして、天領には家康の意を受けて、支配にあたる代官が派遣された。
代官に任命されたのは、農村行政に秀でた旗本で、比較的広範囲を支配下に置く代官は郡代と呼ばれた。

街道の整備

経済促進のため、都市間の街道を整備

天領の殆どは農村であったが、都市や鉱山なども含まれていた。
家康は、江戸・京都・大坂の三都のほか、伏見・大津・堺・尼崎・奈良・宇治山田・長崎などの主要都市を直轄地とし、それぞれに奉行を派遣している。 こうした都市は、経済の中心地でもあり、交通の要衝でもあった。
商業を重視する家康は、都市を結ぶ街道の整備にも着手している。
こうして、全国の主要な街道と宿駅も整備されたのである。

江戸から地方に向かう「五街道」を整備

幕府のお膝元である江戸においては、日本橋を起点に五街道が整備された。
五街道とは、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五つを指す。
この五街道は、江戸から地方に向かう主要道路となった。
五街道の起点となった日本橋は、江戸時代を通じて交通網の中心となり、今でも日本橋の橋の中央に日本国道路元標が設置されている。

貨幣を鋳造

秀吉時代は、統一貨幣がなかった

関ヶ原の戦いに勝利した家康が、経済政策として真っ先に着手したのが、貨幣の鋳造であった。
豊臣秀吉は、天正大判として知られる大型の金貨を鋳造させているが、これはあくまで恩賞や贈答に用いられるモノであり、一般には流通させる物ではなかった。
豊臣政権下では貨幣の統一がされる事はなく、各地で色々な金貨・銀貨・銅貨が流通していたのである。

家康が本格的な貨幣経済を推進

家康も秀吉の存命中から、領国内で通用する「武蔵墨書小判」などを、京都の金工・後藤庄三郎を江戸に呼んで鋳造させていた。
政権の実権を握った事で、慶長6年(1601)、金貨として慶長大判慶長小判慶長一分金、銀貨として慶長丁銀慶長豆板金を制定した。
大判は変わらず恩賞・贈答であったが、小判を額面が明示された計量貨幣として、また銀貨は額面がなく重さを量って取引する秤量貨幣として、全国に共通の価値を持つ貨幣を流通させた。

貨幣を鋳造した“金座”と“銀座”

金貨が鋳造された場所を金座といい、江戸以外にも駿府・京都・佐渡、後には甲府にも置かれたが、最終的には江戸に集約された。
かたや銀貨を鋳造した銀座は、駿府など各地に設けられたが、やがて統廃合によって江戸・大坂・長崎の四か所となった。

武力によって、貨幣経済の利権を独占

家康が金貨・銀貨を鋳造する事が出来たのは、もともと伊豆の土肥金山や湯ヶ島金山のように領国内で鉱山を確保していた事もあるが、関ヶ原の戦い後、石見の大森銀山、但馬の生野銀山のように、力ずくで直轄地に組み込んだ事が大きい。
金・銀貨幣の制定によって、家康は貨幣の発行権を独占し、経済的な優位を確保しようとしたのである。

家光の代に、徳川の貨幣制度が確立

こうして家康の時代に金貨と銀貨が発行されたのだが、当初はそれらは高額の取引に用いられるばかりだった。
一般的に広く流通していたのはあくまでも銅貨で、先の室町幕府は銅貨を発行しなかった為、当時は中国から輸入した永楽通宝などが用いられていた。
江戸幕府の金貨・銀貨・銅貨(銭貨)からなる貨幣制度の確立は、三代将軍・家光による寛永通宝の鋳造が始まってからである。

ヨーロッパ諸国との貿易

黄金の国ジパング

金山や銀山の開発は、外国との貿易にも有利だった。
というのも、この頃ポルトガルスペインが世界に進出しており、各地で得た金銀を本国に送っていたからである。
マルコポーロの『東方見聞録』によって日本は「黄金の国」と紹介されており、恰好の交易国ともなっていた。

東南アジアにまで南蛮が進出

既に戦国時代には、明から居留権を得たマカオに拠点を置いたポルトガルと、征服したフィリピンのルソンを拠点としたスペインが日本に来航していた。
なお、フィリピンという国名は、征服したスペイン王フェリペ二世に由来する。

明からの交易品も南蛮船で運ばれていた

この時代、中国では海禁政策を執っていた為、中国船が海外に出る事は原則として認められていなかった。
その為、ポルトガルやスペインが中国産の生糸・絹織物・陶磁器などを日本にもたらしていた。

家康が二人の南蛮人を召し抱える

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着すると、そのころ大坂城にいた家康は、リーフデ号の航海長でイギリス人のウィリアム・アダムスと、航海士のヤン・ヨーステンを引見する。
家康はその二人を気に入ったという。
ウィリアム・アダムスは三浦按針(みうらあんじん)、ヤン・ヨーステンは耶楊子(やようす)と呼ばれ、家康に近仕した。
因みに、東京駅の八重洲は、屋敷を与えられていたヤン・ヨーステンの名に由来する。

家康が貿易統制に乗り出す

イギリスとオランダは、ともにプロテスタントの国であり、二人はカトリックの国であるポルトガル・スペインを誹謗する事もあった。
関ヶ原の戦いに勝利を収めた家康は、貿易の統制にも乗り出していく。

家康の「糸割符制度」

慶長9年(1604)5月、家康は「糸割符由緒書」を発布した。
これは、堺・京都・長崎の豪商に糸割符仲間という組織を作らせ、ポルトガル船がもたらす中国産の生糸を一括購入させる事を定めたモノである。

“生糸の高騰を抑える”経済政策

関ヶ原の戦い後、生糸の値段が高騰した事から、ポルトガル船が積んで来た生糸が売れなくなっていた。
そこで家康は、糸割符仲間が生糸を一括購入した後、予め決められた割合で配合する方法をとったのである。
これは生糸が売れなくなったポルトガル船が来航しなくなる事を危惧した家康が、ポルトガルに配慮したとも云われる。
他にも、生糸の値段の高騰を抑制する目的もあったと考えられ、「糸割符制度」とは、家康による貿易統制の一環だった。

朱印船貿易

日本からの貿易船は「家康の名」が要る

貿易の統制は、日本から“海外へ行く貿易船”にも及んでいる。
日本の貿易船は、家康の名で発給された朱印状を携える事が義務付けられたのである。
この制度は「朱印船制度」といわれる。

朱印状が“海賊ではない”事の物証

当時、日本の近海には倭寇と呼ばれる海賊が出没しており、貿易相手国の側から、倭寇ではない事を証明する朱印船制度の創設を求められていた。
朱印状の発給は豊臣秀吉も行っていたが、家康はこれを制度化した。

鎖国まで、朱印船貿易で莫大な利益が

寛永16年(1639)に鎖国が完成するまで、朱印状を与えられた貿易船、すなわち朱印船が渡海したのは、史料上で確認されるものを合計すると356隻に及ぶ。
1年間では平均して20隻余りが渡航していた事になり、当時としてはかなり多いといえる。
朱印船を派遣した豪商が利益を上げていたのは勿論、家康自身も長崎奉行を通じて朱印船貿易に携わっており、莫大な利益を得ていた。

家康の富

倹約家だった家康

家康はこれだけの金融政策・経済振興策を進めながらも、本人は倹約家(物や金を無駄遣いしない人)だったという。
『駿河土産』などの逸話集によると、家康は駿府城の大奥において、女中たちがお新香(漬物)を食べ過ぎない様に、わざと塩を効かせていたという。

総額、約200万両

利益を得ながらも、倹約に努めていたおかげで、家康は莫大な資産を残している。
家康の死後に遺産を御三家、尾張の義直・紀伊の頼宣・水戸の頼房に分配した時の記録によれば、金が471箱銀銭が4953箱銀銭入り行李が55箱という数であった。
総額にすると約200万両と試算されており、1両を10万円とすると、およそ2000億円となる。


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