江戸城 大奥

江戸城 大奥

女性だけの階級社会

江戸城大奥といえば、将軍以外の男子禁制の場所
煌びやかに思われがちな大奥だが、その内部は、武士と同様、身分に縛られた階級社会であった。
権力や経済力、姓など、武家社会では大奥でしか見られないような、特殊な環境があった。

大奥の決まり「大奥法度」

「徳川実記」によれば、江戸城本丸に大奥の建物が出来たのは、慶長12年(1607年)、二代将軍 徳川秀忠の時代であった。
その頃はまだ、「御中臈」や「御年寄」といった身分制度はなく、女性たちは皆「奥女中」と呼ばれていた。
それから9年後の元和4年(1618年)になると、大奥に関する決まりである「大奥法度」が定められる。
局から奥へ男子を入れてはならぬ。女は券がなければ城門を出入りできない。夕方六つ以後、門の出入は許されない。」といった決まりである。
これによって、「表」の社会と「大奥」という奥の社会を完全に分離するという、大奥独自の法律であった。

女性は江戸城「大奥」から出られない

江戸城は、幕府の政庁である「表」、将軍の居住空間と政務室を兼ねる「中奥」、将軍の正室や娘、側室などの女性が住む「大奥」の三つに区分されていた。
女性たちは大奥から「中奥」や「表」に出る事を禁止されており、その逆に、男性が大奥へ入るのも禁止されていた。
ただし、江戸時代初頭では、大奥の女性が「表」や「中奥」まで部通に出入りをしていたようだ。
しかし、元和元年(1615年)になって、出入りに関する事は勿論、さらに女性の身なりに関する事まで、事細かな制度が決められる事になる。

家光の乳母であった春日局

これには、当然、理由があった。
元和9年(1623年)には三代将軍に家光が就任しており、家光の乳母であった春日局(かすがのつぼね:当時はお福という名)が大奥女中の取締役に任命されている。
この春日局が大奥の制度を作り出したという。
この制度が決められて以降、お城に上がる女中たちは、女ばかりの閉鎖的な場所に押し込められ、時代劇などでもお馴染みの大奥の世界が出来たのだ。


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