小谷城の戦いは、天正元年(1573年)8月8日から9月1日まで織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦い。
織田軍30000、浅井軍5000と両軍の戦力差は一目瞭然でありこの戦いで敗北した浅井氏は滅亡した。
一乗谷の朝倉氏を滅ぼした信長は、近江に引き返し、浅井長政が構える小谷条攻めを開始する。
織田軍の羽柴秀吉が京極丸を落とすと、本丸と小丸は連携を断たれ、長政・久政父子は自害した。
長政の正室であり信長の妹のお市の方と、三人の娘(信長の姪)であった茶々・初・江たちは救出された。
一乗谷城の戦いで朝倉氏を滅ぼした織田信長は、8月26日に近江に戻ると虎御前山に入る。
翌27日に越前から羽柴秀吉らが帰還するのを待ってから、浅井氏の居城・小谷城への攻撃を開始した。
小谷城は、本丸(兵500)はの他、中丸や京極丸(兵600)、小丸(兵800)など、複数の曲輪が連なった山城であった。
本丸は長政が、小丸は長政の父・久政が守り、二つの曲輪が連携する事で強固な防御力を誇っていた。
秀吉は27日の夜半、3000の兵を率いて、本丸と小丸の間にあった京極丸を急峻な斜面を登って急襲して占拠する。
これで本丸と小丸は孤立する事になり、小丸は28日に落ちて、久政は自刃した。
同日の夜、長政は妻のお市の方と三人の娘たちを、お市の兄であった信長に下に駕籠で送り届けている。
お市が信長に夫・長政の助命を訴えた為、信長は「城を明け渡して忠誠を尽くすなら」との条件を出した。
しかし、長政は信長への忠誠を誓う事を拒否、城兵500人とともに最後まで城に籠って戦う道を選ぶ。
最後は、家臣・赤尾清綱の屋敷に入って自刃して果てたという。
当時10歳になっていた長政の嫡男・万福丸は、家臣とともに小谷城から落ち延びていたが、敦賀で捕らえられ、磔に処されたという。
長政は信長を裏切っていた事もあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を窮めたのだ。
長政・久政親子の首は京で獄門にされ、親族や家臣ら多くの者が処刑されている。
小谷城は廃城にした上で戦功のあった秀吉に与えられ、秀吉は長浜城を築いた。
この戦いの後、近江は織田領となり、信長の重要な拠点となる。