一乗谷城の戦いは、天正元年8月(1573年9月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた合戦である。
但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦いとも呼ばれる。
織田信長の越前侵攻に対し、近江から一乗谷に撤退した朝倉義景は、一乗谷も捨てて六坊賢松寺に逃走。
信長は一乗谷に乗り込み、100年に渡って繁栄を誇った一乗谷の町を焼き払った。
一乗城山に築かれた一乗谷城や、朝倉氏が居住していた朝倉館、有力家臣らの武家屋敷など一乗谷城下町の多くの建物が、信長により灰燼とされてしまい、敗北した義景は自刃した。
姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍は織田信長軍の前に敗れたが、それで終わった訳ではなかった。
その後も朝倉氏・浅井氏ともに十分な兵力を温存していたが、足利義昭との確執に苦しむ信長に追い討ちを掛ける事無く、逆に和睦をチラつかせる信長の計略にハマってしまう。
一方、信長は小谷城の近くにある虎御前山に陣を構築するなど浅井・朝倉氏との決着をつける為の準備を着々と進めていた。
1573年8月8日、浅井氏の配下にあった阿閉貞征が信長に内通してくる。
またとない好機と捉えた信長は約3万人の大軍を率いて岐阜を発ち、近江へと向かった。
小谷城を包囲すれば朝倉氏が援軍に来るに違いないと考えた信長は、10日は小谷城の北西にある山田山に陣を構え、越前から進撃してきた朝倉義景を小谷城に近づけさせない構えを見せた。
仕方なく大嶽山に陣取った朝倉軍を織田軍は蹴散らし、13日には各所に点在する朝倉陣地を次々と潰していく。
義景は敗走を余儀なくされたが、信長軍は越前国境近くで朝倉軍に追い付き、主だった武将を討ち取ってしまった。(刀根坂の戦い)
戦意もない朝倉軍は、退却時に織田軍の猛追を受けて撫で斬りにされ、3000人以上の犠牲を出す凄惨な戦いとなってしまう。
18日、信長が府中に着くと柴田勝家は一乗谷に向かって進撃。
義景は一乗谷から山田庄に逃れ、栄華を誇った一乗谷は焼き払われた。
そして義景は従弟の朝倉景鏡の裏切りに遭い、自刃した。
この後、織田軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼす。
一乗谷城の戦いで朝倉氏が滅亡したことで、信長の領土は越前・若狭に拡大する事となる。