弥生時代の主な遺跡

弥生時代の主な遺跡

日本各地の弥生時代の主要な遺跡をまとめる。日本各地の弥生時代の主要な遺跡のまとめ。日本全国に水田(水稲)・集落(環濠集落)・建物跡が残り、多くの出土品・以降が発見された。
神庭荒神谷遺跡(島根県)、妻木晩田遺跡(鳥取県)、吉野ケ里遺跡(佐賀県)など、随時追記予定。

目次

弥生と縄文の集落について

加工が施された建物や農耕の跡

縄文時代に定住がはじまり、ムラができた

縄文時代以前の旧石器時代の人々は、獲物を追いかけつつ、移動しながらの生活を送っていた。そのため人が定住した遺跡は見られない。縄文時代になると、人は同じ場所で生活できるように家を造り、一族や仲間同士が集まって生活した。これが集落(ムラ)の始まりである。

縄文時代に定住社会の礎ができる

この時代の遺跡からは地面を掘り、そこに何本かの柱を立て、その上に屋根をかけた半地下式の竪穴住居が多く見つかっている。ムラの遺跡からは他に亡くなった人を埋葬する墓や、貝殻や食べ物のカスを捨てた貝塚なども認められている。

弥生時代にさらにムラが発展

一方、弥生時代になると鉄器が導入されたことで、様々な木材加工が可能になった。その影響で、縄文時代はおおむね円形か楕円形だった竪穴住居の形が、弥生時代には四角になっている。さらに新しい建物として、穀物などを貯蔵しておくための高床式倉庫が登場している。

食生活が採集から栽培へ

海や川、山からの恵みを採取して食べていた縄文人と違い、水稲耕作が生活の中心になった弥生人は、米を主食とするように変化した。他にも小麦や小豆、粟なども栽培していたようだ。そのため弥生遺跡では、縄文遺跡では見られなかった、農耕が行われた痕跡も見ることができる。

外部と明確に区画する堀で囲まれた集落

「環濠集落」も大陸からの渡来物

弥生時代の社会において「環濠集落」は重要な意味を持つ。これは水稲農業や金属器と一緒に、大陸から持ち込まれた形式の集落と言われている。

外敵・害獣・災害から集落を守る必要があった

外敵や害獣、自然災害から集落(ムラ)を守るため、さらには住民の集団意識を高める目的で、ムラの周囲に濠を巡らした。
場所によっては、何重にも堀を巡らしている環濠集落もある。これは縄張り意識が強く出てきて、領域や境界という観念が醸成されてきたことを示している。境界の向こう側は非日常の空間という考えも生まれた。

戦国時代まで続く城郭の礎、コンセプトは同じ

環濠集落の内部には、人々が暮らす住居をはじめ米を保存しておくための高床式倉庫、遺跡によっては食料貯蔵用の貯蔵穴などがあった。さらに外敵に備えるための物見櫓のような、大型の建造物も登場している。

縄文期までは【東日本】が先に発展

採集生活なら東日本の方が風土が良かった

縄文時代の大規模集落は東北、信越、関東といった東日本に多く見られる。これは森林植生が西日本と比べると、ドングリなどの堅果類を実らす樹木が多く、それが食料となったことが要因と考えられる。

弥生時代に西日本が東より発展

対して弥生時代になると、東海地方から西に大きな集落の遺跡が多く分布している。これは弥生時代の生業の中心となった水田稲作農耕が、大陸からもたらされたことが影響している。まずは北部九州に伝わり、それが稲作に適した気候であった西日本各地の平野部に広がった。 こうしたことから弥生時代の遺跡でとくに大規模なものは、北部九州や近畿地方で見られる。東日本の遺跡は規模の小さいものが多い。

主な遺跡の一覧

砂沢遺跡(青森県)

池の底に沈む稲作普及の歴史

岩木山の麓の近くにある、縄文時代後期か弥生時代前期にかけてのムラと田んぼの跡が残されている遺跡。この発見により、北部九州で始まった稲作が、短期間のうちに本州の北の端まで伝わったことがわかった。遺跡は江戸時代に造られた池に沈んでいるので、普段は見られない。秋の終わり頃に水が減ると、遺跡が姿を現す。

垂柳遺跡(青森県)

東北地方における弥生時代解明の鍵

昭和56年(1981)、良好な状態の弥生時代の水田跡と数万個にも及ぶ弥生人の足跡が発見され、全国的に注目されたのが垂柳遺跡(たれやなぎ)だ。出土した土器は「田舎館式土器」と称され、東北北部の土器編年上標式遺跡として重要な位置付けとなった。さらに石製品からは、交易の範囲を推定することができるなど、見逃せない遺跡だ。

山元遺跡(新潟県)

日本海側最北の高地性環濠集落

新潟平野の北部に接する村上丘陵に残された集落跡。遺跡の最高所は標高約40m、周囲との比高は36m。比高約6mの谷を隔てて居住域と墓域で形成されていた。居住域は丘陵の頂上部にあり、幅2m、深さ1mの環濠で守られている。平坦面からは掘立柱建物と竪穴建物が各1基ずつ見つかる。北陸と東北の文化圏の接点的存在であった。

弥生町遺跡(東京都)

弥生土器という名称の元になった遺跡

明治17年(1884)、現在の東京大学近くの向ヶ丘弥生町で、16歳の学生が見たことのない土器を発見した。この土器が使われ、米作りが始まった時代ということで、弥生時代という名称ができた。ムラを囲む濠や方形周溝墓と呼ばれる権力者の墓などが見つかり、それらの特徴がその後の遺跡の時代を判断する貴重な材料となった。

大塚・歳勝土遺跡(神奈川県)

現在は広大な遺跡公園となっている

昭和47年(1972)の港北ニュータウン開発に際しての事前発掘調査で見つかった、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。環濠集落の大塚遺跡と、その墓域である歳勝土遺跡から構成されている。ほぼ完全な形で発掘されたが、現在保存されているのは東側の3分の1。残りは開発で失われた。竪穴住居跡27軒を保存、うち7軒を復元。

登呂遺跡(静岡県)

弥生時代を代表する大規模な水田遺跡

昭和18年(1943)、軍需工場を建設する際に発見された。弥生時代の水田跡の遺構が発見されたのは日本初のことだったので、学界からの注目度も高かった。さらに大量の土器や木製品が出土したことと、住居跡や倉庫跡が並ぶ居住域と水田域が一体となって確認されたことも意義深い。登呂遺跡が発掘されたことで、弥生時代といえば水田稲作、というイメージが定着した。

唐古・鍵遺跡(奈良県)

近畿地方の盟主的な集落遺跡か

昭和11年(1936)から翌年にかけ、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査が行われた。その時に土器や木製品が出土。発掘調査は昭和52年(1977)に再開され、2015年9月までで116次に達している。集落はいくつもの環濠に守られ、大型建物や高床、竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されている。

池上曽根遺跡(大阪府)

巨大クスノキをくり抜いた大井戸

クルマがひっきりなしに往来する幹線道路の脇に、巨大な高床式建物が立っている。泉大津市にある弥生時代中期頃の環濠集落遺跡で、巨大な建物は東西17m、南北7mの大きさを誇る。その前には直径2m、深さ1.2m、樹齢700年のクスノキをくり抜いた大井戸も存在した。これだけの建造物を造る弥生人の技術力に驚かされる。

加茂岩倉遺跡(島根県)

大量の銅鐸、戦傷痕のある人骨が発掘

平成8年(1996)10月、雲南市加茂町岩倉の農道工事現場から、弥生時代後期のものと思われる大量の銅鐸が出土。1カ所から出土した数としては、全国最多の39個が確認された。遺跡がある場所は、358本の銅剣が見つかった荒神谷遺跡とわずか3qほどしか離れていない。両遺跡の銅鐸にはどちらも×印の刻印があり、その共通性が注目されている。菅原神社古墳などの古墳群も近くに点在する。

青谷上寺地遺跡(鳥取県)

農具、土器など大量の生活用品が発掘

鳥取市青谷町青谷で発見された遺跡は、約2400年前の弥生時代前期終わり頃から、約1700年前の古墳時代前期にかけて営まれた集落の跡だ。木製品などは残りにくいのだが、低く湿った土地であったため、ここでは地中に大量保存されていた。生活の拠点だった微高地からは、掘立柱の建物跡、火を焚いた跡、貝塚などが見つかった。大陸で製作された銅製品も見つかっている。 遺跡から5000点を超える夥しい人骨が発見され、その中の3点には脳が残されており、弥生人の全貌解明に近づく発見であった。青谷上寺地遺跡から発掘された人骨を元に、青谷弥生人の顔が復元された。

土井ヶ浜遺跡(山口県)

多数の弥生人の人骨が発掘

下関市の土井ヶ浜という海浜近くの砂丘で発見された遺跡。発掘調査は昭和28年(1953)から同32年にかけて行われ、200余体もの弥生人の骨が見つかった。埋葬施設としては、礎石を四隅に配する簡単なもの。副葬品として硬玉製勾玉、ガラス製小玉、貝製腕輪などが出土。その場所を保存するために「土井ヶ浜ドーム」が建てられ、保存だけでなく展示にも役立っている。

紫雲出山遺跡(香川県)

弥生時代の戦いを想起させる遺跡

燧灘に突出する岬上にそびえる、標高352mの紫雲出山山頂で見つかった遺跡。昭和22年(1947)に、山頂での造園植樹中に土器が出土したのがきっかけで発見。弥生時代中期の高地性集落の性格や、同時代の社会の評価に多大な影響を与えた。通常の集落跡で見られるものに加え、防砦や見張台、烽台という軍事的な施設も見られる。

須玖岡本遺跡(福岡県)

『魏志倭人伝』の奴国の王の墓か

福岡県春日市の春日丘陵を中心に、南北2qほどにわたり弥生時代中期〜後期の大集落が形成されていた。116基もの甕棺墓などが発見された。王の墓の上石と推測される大石の下から見つかった甕棺墓からは、約30面の中国前漢時代の鏡、銅剣2本、銅矛5本、銅戈などを発掘。一帯が金印で知られる奴国中心地と推測されている。

平塚川遺跡(福岡県)

大規模な集落が認められる遺跡

平成3年(1991)に発見された、弥生時代中期から古墳時代初期にかけての大規模な集落遺跡。最盛期には数百人が生活していたと考えられている。一部に水を湛えた多重の環濠に囲まれていたのも特徴。銅鏡や貸泉、管玉、木製の農具や漁具などが多数発掘されている。集落には竪穴住居や高床式倉庫、祭殿などの遺構がある。

板付遺跡(福岡県)

弥生時代最初期からの米づくりムラ

御笠川と諸岡川に挟まれた標高12mの低い台地を中心に、集落の遺跡が発見されている。弥生時代のものが主ではあるが、それに先立つ旧石器、縄文時代、さらには弥生の後の古墳から中世にいたる時代の遺跡も認められる。弥生時代の集落は環濠で守られていて、居住区よりも低くなった場所には水田の跡が確認されている。

菜畑遺跡(佐賀県)

日本でもっとも古い田んぼの遺跡

佐賀県北部の唐津市で発見された、縄文時代から弥生時代にかけてのムラと墓地の跡。土器をはじめ石器、木器、骨角器など、さまざまな道具が発掘されている。朝鮮半島の磨製石器や木製の農具なども出土。板付遺跡と並んで日本でもっとも古い田んぼの遺跡があることで着目されている。発見された土器の年代はこちらの方が古い。

神庭荒神谷遺跡(島根県)

古代出雲の地で、大量の銅鐸&銅剣が発掘

偶然に発見された青銅器文化の一大中心地

昭和58年(1983)、広域農道の出雲ロマン街道建設にともなう遺跡分布調査で、ひとりの調査員が田んぼのあぜ道で一片の古墳時代の須恵器を拾ったことがきっかけで遺跡が発見される。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られていたことから神庭荒神谷遺跡と命名された。

銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本

この遺跡の特筆すべき点は、銅剣が358本、銅鐸6個、銅矛16本が見つかったことだ。神庭荒神谷遺跡が発掘されるまでは、日本全国で出土した銅剣の総数は300本余りであった。それが荒神谷で同じ形の銅剣が、きれいに4列に並んで出土したことで、弥生時代の青銅器研究の見直しが迫られたほどである。

銅鐸は国内最古型式のものだった

銅剣のすぐ近くに埋められていた6個の銅鐸と16本の銅矛の組み合わせも、それまでに例のないものであった。銅鐸は国内最古型式のものが含まれていた。銅矛は北部九州で出土する銅矛に見られる綾杉状の文様と同じものが見られた。

出雲の古代王国を想わせる大発見

遺跡が発見された場所は、揖斐町の仏経山から北東に3q、標高22mの小さな谷間。南向きの斜面に上下二段の加工段が作られていて、その下段から見つかった。出雲に古代王国があったのではという、神話の世界を裏付ける発見と期待されている。

妻木晩田遺跡(鳥取県)

弥生時代最大の集落遺跡

建築物が非常に多い

大山町と米子市にまたがる晩田山の里山に広がる、およそ170ヘクタールの弥生集落跡が「妻木晩田遺跡」だ。これは日本最大級の規模を誇り、竪穴住居跡が約450棟、掘立柱建物跡が約510棟見つかった。さらに墳丘墓が39基あり、丘の上には山陰地方に多く見られる四隅突出型墳丘墓も築かれている。

吉野ケ里遺跡より遥かに大きい

最初の発掘調査が行われたのは平成7年(1995)から10年(1998)にかけて。この時に調査されたのは156ヘクタール。これだけでも吉野ヶ里遺跡よりも大きいのだが、現在まで発掘されたのは全体の10分の1程度と考えられている。

強大な権力者の首都であった可能性

周辺で発掘された弥生時代の遺跡と比べると、内容が格段に優れているため、ここはクニを治める首都的なムラがあったのでは、と考える研究者もいるほど。最高所に位置する松尾頭地区には、祭殿や首長の住居と推定される建物跡もあった。

多数の出土品・遺構が発見された

出土したものも数多く、土器をはじめ石器は調理具、農工具、狩猟具、武器などが見つかっている。鉄器に関しては、斧、鑿、穿孔具、鎌、鉄鏃など、弥生時代のものだけで197点も出土。大陸のものも確認されている。再現された建物が山中に点在する。

吉野ヶ里遺跡(佐賀県)

最大級の環濠集落跡

長期間にわたり発掘調査が続けられる

昭和61年(1986)から佐賀県教育委員会によって発掘調査が開始された。以来、長きにわたり調査が続けられていて、現在も整理作業や報告書作成作作業が行われている。2023年には卑弥呼の時代とみられる権力者の墓の発掘調査も行われた。

広い佐賀平野に存在した環濠集落

佐賀県東部は標高1000m前後の山々が連なる脊振山地が北端にあたり、その南麓は丘陵地帯から佐賀平野、そして有明海へ向かって開けた地となっている。その丘陵地帯のひとつが吉野ヶ里丘陵である。

戦国時代を想わせる物見櫓、内部も監視下にあった

これまでの調査では、まず弥生時代前期の初頭、丘陵南端に小規模な環濠集落が形成されたと推定されている。そして前期には2ヘクタール、中期には推定20ヘクタール、後期には40ヘクタールを超す大規模な環濠集落へと発展した。後期の後半から終末期には、望楼(物見櫓)を備えた環濠によって囲まれた特別な空間(北内郭・南内郭)の存在した。

権力者(シャーマン?)の住居施設が存在した

北内郭は内部に中期の墳丘墓に面して祭殿と推定される大型建物を含んだ、掘立柱建物跡が存在。そこは司祭者の住居であり、祭祀の場でもあると考えられている。南内郭は高い身分の人々の居住区と見られる。

墓から権力階層の存在が窺える

墓に関しては、中期初頭から成人用の甕棺墓が数多く営まれている。中期の600mに及ぶ長大な列状の集団墓地などとともに、首長層を埋葬したと考えられる、大規模な墳丘墓の存在も確認された。そこからは銅剣やガラス製管玉、絹布片などが出土したことから、階層分化と首長権確立があったことを示している。

集落内部に市場が存在した可能性

南内郭西方には、大規模な高床式倉庫群と思われる多数の掘立柱建物跡が見つかった。その規模や造りからすると、すでに「市」が存在したのではないかとも考えられている。

戦いの形跡、痛ましい亡骸が遺る

大規模な外濠で囲まれていた古代の城郭

集落の防御に関連したさまざまな遺構が見られる。弥生時代の後期には、外濠と内濠が存在する二重環濠が登場。40ヘクタールを超す大規模な集落を、深く掘られた総延長2.5qの外濠で囲んでいた。

首のない亡骸が埋葬されていた

さらに驚くべきことは、濠の内側と外側に土塁、逆茂木という敵の侵入を防ぐ設備が整えられていたことだ。これらは敵対する勢力との間で、かなり激しい戦いが行われていたことを示唆している。発掘された甕棺の中にあった人骨には、矢じりが刺さったままのものや激しい怪我の跡が残るもの、首から上がないものなどもあった。実際、2世紀後半には「倭国大乱」と呼ばれる、列島規模の内戦が起こったことが、中国の複数の史書に記録されている。


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