米国への宣戦布告の遅れ

米国への宣戦布告の遅れ

第二次世界大戦、太平洋戦争において、日本は米国への宣戦布告が遅れてしまった。日本側は慣れない手法を取ったため作業に遅れが出てしまい、米国側は戦争の大義名分として最大限に利用し喧伝した。しかし、日本の真珠湾攻撃は本来は騙し討ちを想定したモノではなかった。

宣戦布告遅延のタイムライン

12月7日(米国時間6日・土曜日)
夕方 結論部分以外の暗号電文が、日本大使館へ届き解読
大使館員は同僚の送別会へ出席
12月8日(米国時間7日・日曜日)
早朝 交渉打ち切りを示す暗号電文が到着
文書を午後1時にハル国務長官に手交する旨の訓令が到着
午後0時半頃 出勤した大使館員が結論部分の暗号を解読
未明 前日解読分も含めて文書を清書。重要文書のため、タイピストではなく慣れない一等書記官が担当したため作業が遅れる
午後1時半 真珠湾攻撃が開始
午後2時20分頃 ワシントンの野村吉三郎駐米大使がコーデル・ハル国務長官へ交渉打ち切りの覚書を手交

騙し討ちか、宣戦が遅れただけか

米国内では「騙し討ち」として世論が沸騰

米国が「真珠湾への奇襲は日本による騙し討ちだ」と主張し、日本は「翻訳が手間取って遅れただけで騙し討ちではない」と弁解したのは、開戦劈頭、米国内で日本への怒りが沸騰してからのことである。
米国もこの「遅れ」を最大限に利用した。

ハーグの規定的にはグレーだった宣戦布告

『通牒覚書』と『宣戰ノ詔書』の差

宣戦布告とは、紛争当事者である国家が相手国に対して戦争行為を開始する意思を公式に表明することを指す。
これは1907年のハーグ万国平和会議において成文化されたものだが、日本国においては大日本帝国憲法の既定により、天皇のみが宣戦を布告できる。
そうしたことを踏まえれば、奇襲と同時に駐米大使から国務長官へ手渡される予定であった『帝国政府ノ対米通牒覚書』は宣戦布告にはあたらないが、ハーグでは条件付開戦宣言を含む最後通牒も可という補足もされている。
これに従えば、日本の対米通牒は宣戦布告になり得るという曖昧な認識になる。

いずれにせよ、『通牒覚書』がキチンと時間通りに届いていれば、騙し討ち呼ばわりされずに済んだわけだ。

イギリスに対しては最後通牒せず先制攻撃

しかし、陸軍のマレー進攻作戦は真珠湾攻撃よりも早く実行され、こちらはイギリスに対して最後通牒すら与えていない。
つまり、イギリスに対しては言い訳のしようがない騙し討ちであったわけだ。しかし、イギリスではアメリカほどの世論の沸騰は見られなかった。

世論戦でもあった「騙し討ち劇場」

ただし、当時の情勢においてはご丁寧な宣戦布告は疎かにされることが多かった。
つまりこの騙し討ち云々の議論そのものが(当時の認識では)限りなく茶番に近く、アメリカは戦争に参加するための大義名分のひとつとして大いに喧伝し、それに泡を食った日本の戦争指導者が必死になって言い訳したという滑稽劇でもあった。

昭和16年12月8日11時40分に正式に宣戦布告

では、いったい、いつ宣戦布告が為されたのかといえば『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』による。
昭和16年12月6日の大本営政府連絡会議で決定の後、上奏裁可を経て、12月8日11時40分ごろに渙発された。
しかし、数時間前に、真珠湾・マレー半島その他の地で戦闘行為は始められていた。
つまり、開戦後の宣戦布告であった。また、当時の大本営は真珠湾攻撃に対して国内向けに「偶然の開戦だった」という印象操作を行っていたという見方もある。

米国も国内世論を駆り立てる為に動いてはいたか

もしも真珠湾攻撃が為されず、マニラ軍港への空襲だけが対米戦の嚆矢だったとすれば、日本の騙し討ちという文言は北米大陸に溢れかえってはいなかったろうし、翻訳が手間取ったなどという百年の弁解は為されなかっただろう。

しかし、現実には真珠湾攻撃はなされ、日本は無謀な戦争へ突き進む。「あの戦争で日本は騙し討ちなんかしていない」という主張は虚しい。


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