パリ解放

パリ解放

1944年8月25日

ドイツ軍の侵攻によってフランスの首都パリはドイツの占領化にあったが、パリ市内では、政治信条の違ったレジスタンスが連携しドイツ軍へ抵抗を続けていた。
1944年5月に亡命政府フランス共和国臨時政府を樹立、連合軍もドイツ・フランス国境に向けて進軍する。
ヒトラーのパリ焦土化命令をドイツ軍が拒否し降伏。
ソ連がパリを開放した場合、共産化される危険性もあったが、無事にパリが解放された。
第二次世界大戦におけるパリ解放の流れを簡単にまとめる。

ドイツ占領化にあったフランス

1940年年6月22日、独仏休戦協定が締結されて事実上フランスは敗北した。

亡命政府、フランス共和国臨時政府

だがドイツに完全占領されたわけではなく、傀儡ながら政権の樹立が許されて、その所在地からヴィシー政権とも呼ばれた。
一方、フランスを脱出したド・ゴールは自由フランス政権を建てたが、1944年5月に在北アフリカのヴィシー政権側と合同し、フランス共和国臨時政府を樹立。

占領化でレジスタンスが蜂起

政治信条の違いを乗り越えドイツに抵抗

自由フランス政権と連合軍は、ドイツ支配下のフランスでのレジスタンス(抵抗運動)活動を支援していたが、ドイツ軍に抵抗するという目的は同じでも、組織によって政治的信条が異なっていた。
だがフランスの解放に際し、主義を超えレジスタンス組織の連携が行われ、ドイツ軍への抵抗が続けられた。

連合軍は独仏の国境に向けて進軍

ノルマンディー上陸後もドイツ軍の抵抗は続く

1944年6月6日、連合軍はノルマンディーへの上陸こそ成功させたが、ドイツ軍の防戦は頑強で、当初はノルマンディー一帯の海岸を出て内陸部に進撃できなかった。

英米軍が各地の要衝の奪還作戦

同海岸堡のイギリス軍が担任する東翼には、ノルマンディー平野から東のパリ方面へと向かうための要衝カーンが、また、アメリカ軍が担任する西翼には、西の内陸部へと向かうための要衝サン・ローが存在し、「東翼のカーン、西翼のサン・ロー」と称された。

東翼のカーンをドイツから奪還

本来なら、ノルマンディー上陸当日か翌日には確保すべきカーンをドイツ軍は堅固に保持。
7月9日の「チャーンウッド」作戦で確保へと動き、一帯の制圧が終了したのは7月下旬であった。

西翼のサン・ローも確保

一方、アメリカ軍は7月18日に、ようやくサン・ローを確保。
その先へと進軍するための「コブラ」作戦を24日に実施している。

パリ周辺のドイツ軍が壊滅

カーンとサン・ローの確保により、連合軍はノルマンディー海岸から内陸部への突進が可能となった。
この事態に、ドイツ軍は反撃作戦「リュティヒ」を8月7日に発動する。
しかし、ノルマンディー方面のドイツ軍の総力を結集した本作戦はファレーズで連合軍に逆包囲され、ドイツ軍部隊は壊滅。
その結果、パリまでの道程に立ちはだかる同軍部隊はわずかとなった。

連合側はパリ解放を後回しに考えていた

パリを奪還すると補給が大変

このとき連合軍は、ノルマンディー上陸以降の戦略の展望として、パリの解放を積極的には考えていなかった。
ヨーロツバ派遣連合軍最高司令部の試算では、パリが必要とする物資は1日当たり師団約8個分のそれに等しいと算出されたからだ。
当時、ノルマンディー地方の港湾施設は軍用物資の陸揚げにフル稼働状態で、パリへの物資に振り向ける余裕はなかった。

先に仏独の国境を切り離す戦略

さらに、ドイツ軍の激しい抵抗も予想された。
ヨーロッパ派遣連合軍総司令官アイゼンハワー大将は時間と兵力を消耗する市街戦を避け、パリ以東のフランスとドイツ国境まで一気に突き進めば、結局はパリも陥落すると考えていた。

ソ連がパリを開放した場合、パリが共産化する危険性

だが当然、フランス共和国臨時政府首班のド・ゴールはバリ解放を渇望する。
もし共産党(ソ連)がパリを解放したら、その後の政権掌握が難しくなる。
そこで彼はアイゼンハワーにパリの解放を直訴したが、認められなかった。

パリ市民が自力で武装蜂起

連合軍がパリへ向かうことに

ところがパリ市民は独自に武装蜂起し、レジスタンスの使者が苦境を連合軍側に伝えたため、アイゼンパワーもやむなく連合軍部隊のパリ行きを承認。
かくして、自由フランス第2機甲師団とアメリカ第4歩兵師団が勇躍パリへと向かった。

パリのドイツ軍が降伏

ヒトラーのパリ焦土化命令を独軍が拒絶

一方、ドイツ軍パリ軍事総督フォン・コルティッツ大将は、ヒトラーが発したパリ焦土化命令をよしとしなかった。
そのおかげで、大都市を巡る攻防戦にしては両軍とも出血は少なく、1944年8月25日、パリはほぼ無傷で解放された。

ドイツに協力したパリ市民は悲惨な目に…

こうしてパリは無事に解放されたが、占領期間にドイツ軍協力者となっていたフランス人は、解放後に私刑にあっている。
髪を切られ額に鉤十字が描かれ、裸足で市街を引き回されるなどの暴力行為が横行した。


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