キスカ島撤退作戦

キスカ島撤退作戦

日本軍将兵5200人が奇跡的生還

昭和18年(1943)5月27〜7月29日

キスカ島撤退作戦(1943年)は、第二次世界大戦における日本軍のキスカ島からの守備隊撤収作戦。
日本軍が劣勢になる中でキスカ撤退作戦が立案され、将兵5200人が生還した奇跡的な勝利であった。
米軍に全く気付かれることなく見事に作戦を成功させたのは木村昌福海軍少将。

目次

島民ゼロの極北極寒の地

米軍への牽制と監視の目的で日本が占領したが…

太平洋戦争が勃発して約半年後、日本軍はアメリカ領である北太平洋の二つの島、アッツ島(面積約900平方キロ)、キスカ島(約280平方キロ)を占領した。
しかしここはまさにアリューシャン列島の極北の地であり、住民は皆無であった。
占領の目的は、ミッドウェー作戦の牽制、北からの米軍の進攻の監視である。
それから約一年後、今度は米軍の反攻が開始される。

米軍が大規模戦力で奪還に動く

まずアムチトカ島に港湾施設を構築、ここにかなりの規模の艦隊、陸軍部隊、航空機を駐留させる。
同時に二島の奪還に取り掛かるが、最初の目標はアッツ島で、この理由は日本軍の駐留兵力がキスカ島と比較して少ないことであった。
5月に入るとアムチトカ島からの爆撃が頻繁となり、12日に20隻の艦艇に支援された米軍1万2000人が上陸を開始する。
これを阻止する日本側の兵員数は2400人に過ぎず、争奪戦の結果は明白であった。

日本軍に多大な戦死者が出てしまう

島の戦闘は二週間続き、日本軍の大部分は戦死、一方、アメリカ側は600人の死者、1200人の負傷者を出している。

日本軍が初めて「玉砕」という表現を使う

全部の将兵が玉と散った“玉砕”

この際に日本の大本営は初めて「全部の将兵が玉と散った“玉砕”」という表現を用いた。
以後、太平洋の島嶼を巡る戦いで、この表現は繰り返し使われることになる。

キスカ島を守るのはほぼ不可能だった

米軍が次はキスカ島を狙うのは明らか

この戦域に関して、次の戦場がキスカ島であるということは明らかだった。
アメリカとしては辺境の地とはいうものの、歴としたアメリカ領であるから一刻も早い奪還を狙っていた。

日本軍は南太平洋に戦力を割かざるを得ない

他方、日本側としては、この海域の制海権とキスカへの兵力増強を望んではいたが、南太平洋の戦局の緊迫化によりどちらの余裕もあり得なかった。
となればアッツと同じような死守、あるいは撤収となる。
しかしキスカの兵力は5000人を超えており、全員を島から脱出させるのは極めて難しい。

将兵5200人の全員撤収を目指す

海軍力でも米軍が日本軍を圧倒

それでも北方艦隊司令部は後者を選択し、準備に取りかかった。
すでに戦力はアメリカ側が圧倒的で、複数の戦艦、航空母艦をこの海域に集中させている。
これに対し日本海軍は戦艦は皆無で軽巡洋艦、駆逐艦数隻にすぎなかった。

濃霧により二度も撤収が阻まれる

それでも撤収作戦は実行されたが一回目は7月15日に濃霧により中止となる。
帰投命令を出した木村昌福少将は「帰ればまた来ることができるからな」とつぶやいたという。
だが二回目の26日も濃霧により味方の艦艇が衝突事故を起こし、これまた中止となる。
濃い海霧は敵味方を問わず問題であった。

撤収に失敗すれば、将兵5200人は悪戯に命を失う

キスカの日本軍兵士にとって、撤収は自分たちの命に直結する。
しかしそれが二度も中断となり、もしかするとこのまま中止されるかもしれなかった。士官、兵士は連日霧に閉ざされた水平線の彼方から、日本海軍の艦艇の姿が見えることを祈り続けた。

濃霧が明けた一瞬に全員を艦隊が収容

そんな中での29日、奇跡的に濃霧の晴れた一瞬を突いて、日本艦隊はキスカに着岸し、5200人全員の収容に成功する。(正確には5183人)この際、日本陸軍は、兵士に携行する小銃の海中投棄を命じている。
歩兵の命とまで称された小銃の廃棄命令は、このキスカ撤退の時のみで、乗船時間の迅速化から英断であったといえよう。

世界の戦史上でも希な撤退作戦の成功例

乗船を確認した艦隊は全速力で島を離れ、二日後無事、幌筵基地に到着している。
これだけ多数の兵員を敵軍の包囲下、無事脱出させたのは世界の戦史上でも極めてまれな出来事であった。

キスカ島は米軍が占領した

日本軍がいない事に気付かず同士討ちを起こした米軍

米軍はその二週間後、約3万4000人の兵員をキスカに上陸させた。
しかし日本軍の撤退に全く気づかなかったため、激しい同士討ちを演ずることになる。
これにより、25人の米兵が死亡している。

アメリカ側もこの作戦を(皮肉も込めて)評価した

のちにアメリカの戦史は、「日本軍によるキスカ撤退作戦は、見事な成功を収めるとともに、日本軍が実施した最後の人道的な行為であった」と記している。
またこの作戦を指揮した海軍の木村昌福、陸軍の樋口季一郎に対しても高く評価しているのであった。

木村昌福について

米軍にまったく気づかれず奇跡の撤退を成した

明治24年(1891)に静岡県に生まれ、41期として海軍兵学校を卒業した木村昌福は、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦からなる軽快部隊の優れた指揮官であった。その指揮の才能は、キスカ島撤退作戦で見事に開花している。強力な敵艦隊の包囲下、濃霧を味方につけ5000人を超す兵士を、一人の死傷者を出すことなく脱出させた。米海軍の記録には、日本海軍における最良の提督と評価しているものもある。終戦時は中将に昇進し、古巣である兵学校で教鞭をとっていた。その後、海軍時代の仲間と共に製塩業を営んで成功を収め、昭和35年(1960)に波乱に富んだ68年の人生を終えた。


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