硫黄島の戦い

硫黄島の戦い

1945年2月19日から3月26日にかけて太平洋(フィリピン海)小笠原諸島の南端近くに所在する硫黄島(いおうとう)で行われた戦い。
交戦勢力はアメリカ軍で、日本側の敗北に終わった。
日米両軍合わせて、2万人以上の戦死者を出しており、第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。

硫黄島の玉砕

米軍上陸前の壮絶な攻撃

昭和20年(1945年)2月19日早朝、米軍は硫黄島を大小の艦船450隻で取り巻き、一斉に砲撃を開始した。
それがしばらく途絶えると、艦載機120機が約10分間にわたってナパーム弾を投下、終わると再び艦砲射撃が始まり、30分間に約8000発を撃ち込んだ。
上陸作戦直前の砲撃だった。

既に前年の1944年7月以来、米軍は間断なく硫黄島を空爆し、「パールハーバー記念日」の12月8日にはB29、62機が600トン、B24約100機が200トンの爆弾を落とし、巡洋艦と駆逐艦から6800発を撃ち込んだ。
7月以来12月までの空爆機は延べ1669機にのぼった。

天然洞窟と坑道からなる地下坑道

それでも空爆による損害は、戦死75名、重傷53名、軽傷63名に止まっていた。
栗林忠道中将指揮の小笠原兵団約21000名(陸軍14000、海軍7000)は地下に構築した複郭陣地に潜っており、陣地間も洞窟式交通路によって連絡されていたからである。
地上の設備は事前の空爆と艦砲射撃で壊滅的な程破壊されてしまったが、人員の保護を最優先とする事で、長期戦へ持ち込んだのだ。

栗林忠道小笠原兵団長(中央)

栗林忠道小笠原兵団長(中央)

一日でも長く、硫黄島を守り続ける

一個戦車連隊(指揮官・西竹一中佐、オリンピックの馬術金メダリスト)を含む約20000人を集中できた事は当時としては上出来であった。
しかし、航空隊の支援も援軍も全く見込みはなかった。
栗林中将に東条首相が、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と懇請したといわれるが、これは「玉砕せよ」という意味であった。
硫黄島が米軍に占領されてしまうと、日本本土への空爆の拠点として使われてしまうため、一日でも長く、硫黄島を守り続ける覚悟が必要だった。

一人十殺の合言葉

硫黄島の戦いに臨んだ日本兵らは、全員が死ぬまで戦う意思を固めていたという。
栗林兵団長は「敢闘の精神」六カ条を定め、朝な夕な斉唱させて指揮を高めさせていた。
それには、爆弾を抱いて戦車にぶつかり、敵陣に切り込んで敵を倒し、一人十人を倒さなければ死んでも死なず、最後の1人になってもゲリラとなって戦う決意が示されていた。

摺鉢山山頂に翻る星条旗

上陸させてから叩くという戦術

米軍に対して数で敵わないのは分かり切っていた。
そのため、敢えて米軍を上陸させた後、ゲリラ戦術的に時間を稼ぎ、滑走路を自由に使わせない事が最優先された。

上陸してくる米海兵隊の舟艇

上陸してくる米海兵隊の舟艇

米兵

死角から攻撃してくる日本兵に、苦しむ米兵

守備隊は、米軍部隊が上陸した後、十分に引き付けてから攻撃を始めた。
取り分け、唯一の山である摺鉢山(すりばちやま)砲台からの12cm榴弾砲(りゅうだんほう)をはじめとする砲撃に戦車部隊は右往左往し、海岸の橋頭堡は大混乱に陥った。
上陸第一波の八個大隊は正午までに1/5から1/4が死傷した。
19日中に上陸したのは第4、第5海兵師団の約31000名だったが、初日に全体では8%の死傷者を出した。

兵力・装備ともに、米軍が圧倒

翌日から米軍は最大の陣地・摺鉢山(標高169m)の攻略と、その麓の千鳥飛行場占領に全力を傾けた。
そこの守備部隊は一個大隊、米軍は戦車部隊と一個連隊(第五海兵師団)である。
大隊が3〜4個集まって一個連隊を編成するのは日米とも基本的には同じだ。
装備が同じレベルでも勝てる相手ではなかった。

姿が見えない日本兵に苦戦する米軍

全体が岩で出来ている摺鉢山に、上陸3日目、艦載機が空爆を繰り返し、艦砲射撃が休みなく注がれた。
それが一段落すると第四海兵師団の歩兵部隊が洞窟の陣地入り口を潰しながら上っていった。
日本軍は地上に姿を見せず、不意に洞窟の入り口から飛び出して肉薄攻撃を繰り返した。
このため、米軍攻略部隊は1日に約500m、あるいは600mしか前進出来なかった。

世論が戦争を嫌うアメリカ

22日(上陸4日目)にニミッツ元帥(米太平洋艦隊司令官)が、上陸51時間後の死者644名、負傷400名、行方不明560名と発表(事実よりかなり控えめである)すると、全米で非難の渦が起こった。
タラワ島やノルマンディー上陸作戦よりも犠牲者が多いではないか、上陸指揮官のスミス中将は辞めさせるべきだというのであった。
硫黄島にはカメラマンとジャーナリストが100名以上従軍しており、戦闘の経過が詳しく報道されていたのである。

輸血を受ける米兵

傷つき、輸血を受ける米兵

摺鉢山に掲げられた星条旗

それだけに23日(上陸5日目)に海兵隊が摺鉢山山頂に星条旗を掲げようとしている写真が数日遅れで公表されると、5名の海兵隊員はたちまち英雄となった。

摺鉢山に星条旗を掲げる5人の米兵

摺鉢山に星条旗を掲げる5人の米兵

地下陣地の抵抗

摺鉢山は占領されたが、守備隊の徹底抗戦は続いており、米軍は朝8時になると砲撃を始め、そのあと歩兵部隊を前進させた。
島の中央部・元山飛行場から玉名山を結ぶ線の洞窟には混成第2旅団の砲兵隊が健在で、その47mm速射砲は米戦車部隊を22日から2日間にわたって阻止する事が出来た。
24日、飛行場をめぐって白兵戦が起こり、守備隊は一時米軍を撃退した。
米軍は予備の第三海兵師団を上陸させて戦力の増強をはかってから一大攻勢をかけ、27日元山飛行場を占領した。
この頃までに米軍は約8000名が死傷し、守備隊も既に半数の約10000が死傷したものと推定された。

米軍の火焔放射器による掃討作戦

海軍部隊の指揮官・市丸利之助少将は大本営宛の無電で「硫黄島戦闘の特異性は敵は地上にあり、味方は地下にありて戦闘中」と述べ、苦戦中である事を報告した。
元山飛行場が占領された後も守備隊は地下陣地に拠って米軍を悩ましたが、米軍は火焔放射器で洞窟内を攻撃し、入り口を見つけると爆破して塞いだ。

火焔放射器で洞窟内の日本兵を攻撃する米兵

火焔放射器で洞窟内の日本兵を攻撃する米兵

日本兵の執念の戦術

守備隊の攻撃はゲリラに近い戦術に変わりつつあった。
爆薬を身に包み戦車に体当たりしたり、戦友の亡骸の中に身を寄せ、死者のフリをして敵部隊を見過ごした。
そして、敵が通り過ぎてから起き上がり手榴弾を投げつけた。

バンザイ突撃

3月17日、兵団司令部は大本営宛に訣別の無電を打ち、24日、バンザイ突撃を実施して組織的抵抗を終えた。
しかし、残存兵はゲリラとなって地下に潜り続け、終戦後も抵抗し続けた。
捕虜となった者は最終的には1000人程である。

投降して来た日本兵

投降して来た日本兵

米軍に占領され、整備された硫黄島基地

米軍に占領され、整備された硫黄島基地


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