関東大震災

関東大震災

関東大震災は1923年(大正12年)9月1日に首都圏、関東地方を直撃した大地震。
東京や横浜、隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。

死者、行方不明者10万余で壊滅した東京

1923年9月11時58分32秒頃、南関東一帯をマグニチュード7.9の大地震が襲った。
震源域は神奈川県中部から房総半島南端にかけての約100qに及び、震度や東京よりも神奈川の方が大きかった。
折悪しく昼食時だった為、各地で火の手が上がり、強風に煽られて2日間東京で燃え続けた。
この関東大震災で、東京は都心から下町に掛けて約半分の地域が焼失した。
横浜をはじめ、各地が壊滅的な被害を受け、死者、行方不明者は10万人以上に上った。

木造建築物によって大火災が発生

大震災と呼ばれる災害では死因に特徴があり、本災では焼死が多く、阪神・淡路大震災では圧死、東日本大震災では溺死が多かった。
本災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み、木造住宅が密集していた当時の東京市(東京15区)等で、火災が広範囲に発生した為である。
時代に応じて、地震の被害の状況には差がある。

水・食糧不足によって騒動が発生

辛うじて逃げ延びた人々は、皇居前広場や公園などに腰を落ち着けた。
しかし、水道や、鉄道・道路などの交通が断たれた為、水や食糧への不安が募った。
警察や軍による配給が行われたものの、それらを巡って騒動が多発した。

震災後の各地域の動き

皇居前広場
約50万人が避難し、バラック街が形成された。
上野公園
約40万人が避難し、西郷隆盛像は尋ね人の張り紙で一杯になった。
陸軍被服廠跡
詰め掛けた避難民は猛火に包まれ、約4万人が逃げ場を失って亡くなった。

混乱の最中、戒厳令が出される

東京の新聞社は電信・電話などの通信網が壊滅した為、震災直後から外国人が暴動を起こしたといったデマが飛び交った。
これらのデマは被災者をパニックに陥れ、9月2日に成立したばかりの第2次山本権兵衛内閣は、戒厳令を出して軍隊の力で治安維持を図った。
しかし、政府や警察・軍の動きは、返ってデマに信憑性を与えた。
武装した民間の自警団や警察らの手によって、罪もない多数の外国人が殺害された。

また、警察や軍は混乱のどさくさに乗じ、理由をでっち上げて社会主義者らを拘束した。
労働運動家平沢計七らを殺害(亀戸時間)、無政府主義者大杉栄らを殺害(甘粕事件)するといった事件が発生した。

震災時の政府の動き

後藤新平内務大臣が復興にあたる

関東大震災のときの総理大臣は山本権兵衛(1852年〜1933年)であったが、山本総理は後藤新平内務大臣に復興を任せる。
後藤は医師出身で、内務省衛生局長や満鉄総裁、鉄道員総裁、東京市長を務めた異色の政治家であった。

『復旧』ではなく『復興』を目指す

後藤は震災から5日めに「帝都復興の儀」を閣議に提出する。
それは震災前の姿への『復旧』ではなく、抜本的な都市改造を行う『復興』を目指していた。
帝都復興のため独立機関(帝都復興院)を新設、復興費用は国費とした。
後藤の復興計画は「後藤の大風呂敷」と揶揄されたが、そのなかには後の自動車時代を見越して50m幅の道路、区画整理、多数の公園、鉄筋コンクリートの橋梁なども含まれていた。

復興計画実施は内務省復興局と東京市が

復興計画の実施は、第二次山本内閣の総辞職にともなう復興院廃止を受けて後藤の手を離れ、内務省復興局と東京市が中心となって震災翌年から始まった。

地震後の影響

地震によって生まれ変わった日本

震災は東京が生まれ代わる転機となり、大規模な帝都復興計画が進められた。
狭く入り組んでいた道路は、広く真っ直ぐな舗装道路に整備され、耐震耐火に優れた鉄筋コンクリート造のビルが次々に建てられていった。
しかし、被害総額60億円以上といわれる経済的打撃は大きく、第一世界大戦後の戦後恐慌から続く不況に、追い討ちを掛ける結果となった。

天災によるドーナツ化現象

この震災により東京市・横浜市から東京府下や埼玉県などの郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した。
また、後の高度経済成長期に三大都市圏の中心となる大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。

都市開発に改善点を与えた

また東京市電の機能不全を肩代わりさせるため東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始。
すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。


↑ページTOPへ